【 瀬波慎太郎書き下ろしシリーズ vol.1】

 

月下の咆哮

瀬波慎太郎

 


 〈今日は何かがおかしい? 変だぞ。どうしちまったんだ俺は!?〉

 一階のエントランスに向うエレベータの中、私は頬が緩むのを懸命に押さえながら、血が騒ぐような、心が掻き乱されるような奇妙な興奮に湧き立っていた。

時計の針が午後十一時を指そうとする頃、ようやく一日の仕事を終え、退社しようとしていた。

 連日の残業でストレスも疲れもたまっている。まだ夕食も取っていないので、お腹も空いている。最近は何一ついい事なんてなかったのに、今日は夕方からやけに身体が軽い、心も軽い。この浮き立つような高揚感は何なのだろう。

 それは徹夜明けの、ハイな気分に似ていた。

「どうでもいいや、そんなことは。―――ようし、今夜は走って帰るぞ!」

 電車通勤で三十五分を要する距離など、頭から消え失せていた。すぐにでも身体を動かしていたいのだ。

私は御茶ノ水にある会社から、アパートのある池袋へと走り始めた。

会社を出ると、さらに気分は昇りつめ、心と身体が加速する。口元からは無意識のうちに、訳の判らない鼻歌交じりのフレーズが零れ、足並みを合わせてリズムをとる。


 はしるぞ、はしるぞ、はしってるぞ。

 たたた、たたた、たのしいな。ヒャッホー!


 東大の赤門を超え、夜の本郷通りを疾走していた。スーツを着て、ビジネス鞄を抱えながら、映画「雨に唄えば」のジーン・ケリーばりの軽やかなステップは、充分に危ない人に見えたかもしれない。しかし、身体は絶好調! 昼から何も口にしていないのに、力がどんどん漲ってくる。


 いくぞ、いくぞ、どこまでも。

 うきうき、わくわく、たのしいな。イェーイ!


 旧白山通りに入り、ある交差点で突然、今夜のこのクレイジーな気分に至った原因を理解した。

「なんだ。やっぱり、そうだったのか」

 交差点から見えるビルの谷間には、ぽっかりと満月が顔を出していた。

 この高揚感は月からくるものなのだろうか。実際、人間の血液と海水の成分は奇妙なまでによく似ている。その海水が月の引力によって潮の満ち引きがあるように、同じ現象が人間の体内でも起こる可能性があるのかもしれない。現にアメリカのある統計では、満月の日にもっとも犯罪率が高くなるというデータがあるらしいが、これを偶然として片付けることはできない。

「ようし、今夜は倒れるまで走るぞ!」

 明日は休日ということもあって、開放感と高揚感がひたすら肉体の限界に挑戦する。

〈真っ白になるまで燃え尽きたい!〉

 その強固なまでの想いは、一切の休息を拒否し、頑ななまでに走ることに執着していた。Yシャツとズボンが肌に張り付き、尚一層、身体に負荷を与える。

 やがて白山通りから、巣鴨の地蔵通りを抜け、明治通りへと入っていた。


 はしるぞ、はしるぞ、はしってるぞ……。

 たたた、たたた、くるしいな……。


 何かに憑かれたように前に進もうとする意思は、既に肉体の限界を超え、楽しいはずだった鼻歌が、呼吸を荒げ、呪文のような呟きに変わっていた。

「ここまで来たら、とことん行ってやる!」

 この時点で目的地は変っていた。明治通りを池袋方面に走りながら、本来であればアパートに帰るために曲がらなければならない路地を曲がらずに、明治通り沿いにある高層ビルの非常階段を駆け登っていった。


 もうすぐ……、もうすぐ……、たどりつく。

 ゼイゼイ……、ハアハア……、たおれそう。

 

 手摺りに掴まりながら、一段一段這い上がり、ついに十四階建てのビルの屋上に出た。

「まだだ……」

 私は歩みを止めることなく、さらに屋上の出入り口の上にある屋根を目指し、梯子によじ登った。脚の筋肉がガクガクと痙攣し、梯子を踏み外しそうになる。

 そして遂に屋上の最高部に登り切ったのだ。

「やった……、やった……、とうちゃくだ……」

 転がるように最高部に辿り着くと、尻餅をついてその場にへたり込んだ。


目に飛び込んできた東京の夜景が眩しかった。

 年に数回訪れるこの場所からは、サンシャイン・シティ60はもちろんのこと、新宿の高層ビル街や丸の内のオフィス街も望め、三百六十度、半径十キロ近くまで見渡すことができる。だが何回訪れても、ここから見渡せる景観は、いつも新鮮な感動を与えてくれる。

 やがて徐々に汗が引き、呼吸が整いはじめてきたが、それと共に心の奥底から狂おしいほどの焦燥感が湧き上ってきた。

〈まだ、燃え尽きていない。もう少し……、もう少しで完全燃焼できるのに!〉

 最後の一欠けらが、燻ったまま消え逝こうとしている。

 しかし、目の前に浮かぶ大きな大きな美しい満月を瞳が捉え、月光を全身で受け止めたとき、胸の熱い塊が、音を発ててメラメラと燃えあがった。

「ウォオオオオオオォー!!」

 夜のしじまを打ち破る咆哮が、東京の夜空に響き渡る。私は叫び終えたあと、何もかもが可笑しくなって、その場で笑い転げた。

 ああ……、とうとう狂ってしまった。でも、こんなにきれいな月夜くらい狂ったっていいじゃないか。と、私は腹を抱え、飛び跳ね、涙を滲ませて笑い狂っていた。

「あー、すっきりした」

 その場に座りこむと、ぼんやりと月を眺めた。もう先程の熱い塊は燃え尽きていた。そうしていると周りの景色が一変し、静寂とともに押し寄せてくる。

 さっきまで、バイクの排気音や車のクラクション、線路を行き交う電車の音を、都会の喧騒として身体全体で受け止めていたにも関わらず、いまは妙に現実味のない夢の中の出来事のように遠くに聞こえる。

 満月は相変わらず立ち並ぶ高層ビルの合間から、都会のネオンに負けまいと柔らかな光を発している。それは都会に雪が降り積もったかのように、月の光が雑然とした夜の街並みを、静かに深青な光で覆っていた。


 おいかけ、おいかけ、おつきさん。

 ららら、ららら、とどきそう。



文/瀬波慎太郎

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■井貫裕文(ペンネーム瀬波慎太郎)プロフィール

この世をしのぶ仮の姿(?)は浅草のゲタ屋さんであり
店舗運営和雑貨商品コンサルタントとしても活躍中。
だが、その真髄は「文章」にあり。
今月から「書き下ろし小説」をいよいよBE☆SEEに掲載!


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株式会社 YOU-BI(遊美)
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「遊美なげた物語」アウチ漫画
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