■亜希菜のコラム vol.1
「生まれる」と言うこと。新たな生を受けること。地上に生まれ出ること。
生まれ出る・・・・では何処から???
かつて人はカビや細菌類、小さな虫たちは土から自然発生的に生まれると信じていました。
しかし1861 年パスツールによってそれは完全に否定されることになりました。
「生あるものは生あるものからしか生み出されない」
それと同様に精神は精神からしか生まれ得ないと言うことが出来ましょう。
脳が考えるのではない。私が脳を使って考えるのである。
人体の骨は物質としては燐酸カルシウムです。
リンの形成した形態にカルシウムが充填されるようなかたちで形成されています。
リンという物質は光と関係をしています。またカルシウムが物質=陰との関係を持っています。
つまり光による形体が先ず出来上がって、それがカルシウムによって物質となるそんな造られ方といえます。
前2項の話と同じように考えてみると、「私」と言う存在が、精神的な存在、生命を持った肉体に降り立つのだ
と考えることができるように思います。
“Talanton”これは古代ギリシャに於けるバランスの尺度であり、
重さの単位です。これはまた貨幣の単位としても使われました。
つまり価値の単位でもあったのです。この重さを示す語「タラントン」は「タレント=才能」の語源となっています。
つまり我々はある時期が来ると、Talanto という重さを得て、その重さゆえに地上に降りるのだと言います。
タレント・・・それは一人ひとりが作り出した使命であり、同時にそれはその使命を達成するための道具でもあるはずです。
一人ひとりはそれぞれ異なった意図=使命を持って此の世に降り立ち、
それそれの道具を駆使してその価値を大きくして行くのでしょう。
それぞれの道でそれぞれの方法で、多くの人に出会いながら、研鑚を積むのでしょう・・・・
■【亜希菜のコラム vol.2】
芸術と新価値
text= AKINA IWAHASHI
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芸術とはなんだろうか?新しさとはなんだろうか?
これらの言葉は一瞬、特別なことを通しての見えられるような印象を与えます。
しかし、彫刻が彫刻でありつづけながら、絵画が絵画でありつづけながら、
また建築が建築でありつづけながら新しい表現を見出しています。
ビザンチン、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、マニエリスム、バロック・・・
その後新古典主義、偽古典主義、アール・ヌーヴォー・・・
しかし我々はその表現を見るとき、つい表面の像に心を奪われがちです。
そんな疑問は19世紀 Huebsch("ue"はUのウムラウト:Heinlich Huebsch
1795-1863)
の書にも見出されます。
そのなかで様式、つまり現れ方は変化していますが、柱は柱でありつづけています。
かつて生きていたものに対峙する時には、
その時代の感覚で対象に向かわねばなりません。
それが生きた時代の感覚で・・・
石は切り出された荒々しい姿、磨かれ輝いた姿、全く異なる姿を我々に見せてくれま
す。
どちらが本当の姿ということではなく、それぞれが同時にその本質を表しています。
石の彫刻・・・・これも同じです。彫刻家は素材である石に向かい、そこに内在する
形象を素材と言う物質の世界から彼の精神の光を通して、光の世界へと表出させてい
るのです。
可能性と真実を見出し、それを表出させることが芸術なのだと思うのです。
エンテレケイアはエネルゲイアにおける最終段階ではなく、
一つの次元としての様相ではないだろうか?
デュナミスについての説明のなかでアリストテレスは、
「自然は運動の原理であるが、他のものの内にあるのではなく
自分自身として自分の内にある」と言っています。
ひとはひとであり、自分は自分でしかない。
しかし一人ひとりにはまだ見ぬ無数の価値があり可能性があります。
「そんなものはない」とある人は言うかもしれません。
「それはあるタレントによって新たに生み出されるものだ」というかもしれません。
しかし、めしいた人にとって色彩の世界は存在しないように思われますが、
治療によって目が見えるようになったとき、
健康な視力を持っている人には既に感覚されていた色の世界が認識できるようになり
ます。
つまり認識には常に感覚能力が先行することを忘れてはいけないのです。
自らを磨き、その光を、ある対象の奥にある光にあてるとき
その対象は実体の真実を語りはじめるのです。
新たな、まだ見ぬ側面を表すのです。
文/岩橋亜希菜(いわはし・あきな)
■【亜希菜のコラム
vol.3】
子供の頃に考えたこと・・・沢山重なって生きている
text= AKINA IWAHASHI
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「像が踏んでも壊れない」そんな宣伝もありましたが、
小学校の頃、多分4年生の頃だったと思います。
筆箱を壊されたことがあります。
当時はプラスチックの筆箱を私も持っていましたが、友達がふざけて遊んで壊してしまいました。
壊されて手元に戻ってきた筆箱、悲しい思いで眺めながら考えたことを思い出しました。
『これを直せばもとの筆箱になる。そして壊れたとしてもこの存在は無くなってはいない。
壊れてばらばらになったとしても存在はしているんだ・・・
つまり今までは筆箱として存在していたものが、別のかたちとして存在しつづけている。
筆箱としては存在しないが、プラスチックという素材としては私のてもとに存在しつづけている。
プラスチックとしての存在が解体すると、また別のかたちでのありようがある・・・・
これを拡大して行くと、いろいろなものが同時に様々の形として存在しているに違いない。
そう考えたのでした。
1つの時間の中に1つの存在は多くの時間を内包し生きている。
これをその時私は「次元」と呼んでいました。
だからこそ、数も
一、十、百、千・・・・那由他、無量、そして
10の72乗である大数へと拡大し、
逆に、割、分、厘、毛・・・・10のマイナス18乗である刹那へ、さらにその先へと解体してゆくような概念があるのであろうと・・・・』
こんなことを考えたのでした。
以上は子どものことで、単純な発想ですが、
単純な分、意外と外れてないかも・・・・とも思うのです。
我々人間に当てはめて考えてみると、
石同様に鉱物としてあり、
植物同様に生きるものとしてあり、
動物同様に行動するものとしてあり、
そしてひととして考え意志するものとして立っている。
大雑把に分けても我々は同時に4つのありよう=4つの次元で生きている。
社会的にはまたさらに複雑になって、
例えば、
社会を構成するものとしてあり
建築家としてあり、
未来をつくるものとしてあり・・・・
きりがないほど多様に生きている。
年をますごとに自然と増え、人生を卒業する時期に向けて自然と減らしてゆく。
しかし、ともすると僅かな次元でしか生きようとしない自分もいます。
増やすも減らすも自分次第。
それぞれの密度を増すも薄めるも自分次第。
そんな人生の成果が良くも悪くも未来の自分の課題として、また戻ってくる。
精一杯生きられる限り、生き生きててゆきたいと思うのです。
良きものとして・・・・創り続けるものとして・・・
亜希菜
■【亜希菜のコラム vol.4】
子どもの教育とPC
text= AKINA IWAHASHI
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早く言葉を覚えさせる。早く算数を学ばせる。人より早くPCの使い方を学んだほうがいい。
そういって様々なことを子どもたちに出来るだけ早くまなばせたほうが良いと考える人が多いと思います。でも「その理由は?」と尋ねると、こどもそのものの成長ではなく、周りとの比較、競争が見え隠れしています。よい成績をとって、良い学校に入って、良い会社に入って・・・・。
ここで言われる「良い」というのは、「この子の生き方に相応しい」という意味なのでしょうか。
本来教育というものは、一人ひとりの子どもがそれぞれのあり方に相応しい道を見つけ、自分として社会の中で正しく生きる力を育てるためにあると考えると、どうも方向がずれているようにも感じてしまいます。
人には時代時代で経験しなくてはならないことがあって、時期を外すと、その経験から得るものを取り戻すために大変な苦労をします。大人になってから外国語の習得しようとすると、大変苦労する。そんな体験もそのことを示しています。それとは逆にPCの取得を大学生が苦労することはそれほどありません。つまり機械的な作業の習得は大きくなってからで良いことである、むしろ大きくなってからのほうが相応しい学習内容であるといえます。
小さいときには、知的な学習以前に、身体の形成や、思いやる気持ちや、倫理観を育てる次期なのです。ですからPCゲームを無言でしている子どもを見ていると、本当に大丈夫なのかな?と考えさせられます。
決まった行為に対して、決まった反応が返ってくる。そこには創造する力は必要ありません。こどもは遊びの中で、想像力、慮ること、先を見通すこと、自ら何かを作り出すことを学んでゆきますが、この世界ではそんな能力は必要ありません。指を突き、キーをたたく行為は自分の欲求を力で行使する行為です。それだけで良いのです。早く、力強く叩けばたたくほど、機械はその人の気分が良くなるような結果を提供する。これがPCゲームの世界です。
そんな「日常」に育った子どもはどう育つでしょうか?
自分の欲求を力ずくで表現すれば、それが必ず満たされる世界が日常としてある子どもたちは・・・
人に対しても自らの意志を力で押し通すのが当然と考えるようになっても不思議ではありません。
指を突き出し命令するのです。「・・・・が欲しい」「・・・がしたい」それが満たされなければ満足できません。でもそんな日常は現実の世界には無かったのですから。
ものはそれぞれの時間を持っています。必要な時間が内在しています。
動物は生まれてすぐに自立し、すぐに大人と同じように生活を始めます。しかし人間はほぼ20年という時間をそのことに必要としています。そこには生まれて、本当の意味での「ひと」となるまで、成人となるまで学ぶことがあるということが示されています。
今の時間を大切に育てる。
これが教育の基本ではないでしょうか?
ですから「早すぎること」は「遅すぎること」と同様に健全なことではないということをきちんと認識しておくことが必要です。
時間の存在が我々の外の世界にあるということは、即ち我々の内に時を持っていると言うことなのですから。
岩橋亜希菜
■【亜希菜のコラム vol.5】
塩と水
text= AKINA IWAHASHI
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我々の身体はCaであったり、Naであったりといったミネラル(鉱物)によって形成されています。
これは髪の毛や眼球、血液や器官にいたるまで同じです。
ですから我々はいわば鉱物界に属していると言うことができます。
しかし同時に我々が生きている間、身体はそれらの世界に融解することなく、
固体としての存在を維持しています。
これは植物も同じことで、生命のある間は
それぞれが解体することなく固体としての存在を持続しています。
植物は枯れ葉が落ち、また生命がなくなると途端に生物は、
鉱物の世界へと解体してしまいます。
新陳代謝としてわれわれはこの鉱物的な物質身体を常に更新していて、
3ヶ月でほぼすべての部分が新しい物質に置き換えられるといわれています。
もし人間存在を単に物質として捉えると、3ヶ月で全く別の人間にならざるをえなくなります。
しかし3ヶ月間豚を食べ続けても我々は決して豚になることはありませんし、
我々は自分が自分であることを3ヶ月、眠りと覚醒を繰り返してもきちんと把握できますし、
記憶、ある出来事で感じた内的気分も保持し続けることができます。
我々は物質界で体(Leib)として個別の存在性を保持しているように、
目に見えない思考や感情、固体としての意識なども、ある個体的につなぎとめている。
肉体を、そして内的世界を保持する、そんな存在を我々の内に考える必要があると思います。
ししてそれらは同時に我々の外にも存在するものだとも考えそのディアレクティークを考えると
その存在がおぼろげに姿を見せてくれます。
睡眠と覚醒を我々は交感神経と副交感神経の交代として生理的にも体験していますが、
それを私たちは呼吸のリズムとしても体験しています。
つまり断続的連続性もしくはリズム律継続性の中に生きているということが言えるのではないでしょうか。
呼吸のリズムを考えて見ましょう。
覚醒と睡眠のリズムは正と死のリズムの子供であり、
それは呼吸として息を吐き息を吸うことによって絶えず
体験されています。
たとえば、成人の場合、1分で18回の呼吸をしますが、
1日では
18 * 60 * 24 = 25,920 回となります。
人の一生をおおよそ72年としてとえて1年をおおよそ360日とすると
72 * 360 = 25,920 となって
1日呼吸数が72年の日数と一致します。
ですから、1つの呼吸は72年とした生涯の1日に当たることになります。
また、、この72年を1呼吸と考えて、
1年約360日と考えこれを掛けあわせると、これも25,920となります。
現在太陽はおおよそ、獣帯におけるうお座の位置から昇ります。その位置は毎日動いてゆきます。
今日と同じ位置から太陽が昇るのは25,920年後となります。
これは大宇宙年、若しくはプラトン年と呼ばれる
宇宙のリズムとなります。
我々の存在は内的な行いが、内的な存在がやはり大きな世界と繋がっている。
そんなことを想起させはしないでしょうか。
岩橋亜希菜
■【亜希菜のコラム vol.6】
視点と認識
text= AKINA IWAHASHI
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“science”の語源はラテン語の “scio”「知って得たもの」の意味だそうです。
一方、日本語では、中国で12世紀ごろから使われていた「科挙之学」を短縮し「科学」として、
幕末から明治ごろに「個別学問」といった意味で使われていたようです。
ついでながら“con”は一緒にというような意味で、“conscious”は
“con + scio”として、理解とともに育てられるものといったような意味合いでしょう。
さて、科学万能とする考え方は、19世紀すでに高まっていて、
科学によって可能なものはこれ以上ないであろうと思われていたほどです。
この状況は現代の在り方に非常に似ているように見ないでしょうか。
すべてが自然科学によって理解できると思っています。
しかし、どんなに物質を分子、陽子と陰子、そして中性子、クオークと細かくしても、
それは細かくなった物質に留まっていて、物質と何かをいまだに見出してはいないようにも思えます。
すべてが細分化され世界にあって、近年「メディア」つまり「媒体」=「つなぐもの」への意識が強まってきたのは不思議なことではないと思えます。
20世紀は、媒体に関する強烈な意識によって我々の時代さまざまな情報伝達技術が発達した時代といえます。
この科学技術によって我々は、まったく異なる場所で起きた事件を、ほぼ同時に知ることができるようになりました。
東西の差異、南北の差異が目の当たりにできるのもそのお陰といっていいでしょう。
この差異を見る時、我々は単純に東西問題、南北問題と言ってしまう。
これは、自らの属する地域に根差した価値観で、一方を価値のないもの、若しくは問題を抱えたものと捉え過ぎているようにも思うのです。
「差異ができた」と思うと、それを「問題」ととらえ易くなってしまいます。
それをむしろ世界を同時に見られる時代になるまで、
その差異を認識できる時代まで残されていた、と考えるならば、その意識は一変します。
経済が発達した地域に対して、それ以外の者の優位性を保持した地域が、
科学的視点が発達した地域に対し、過去の融合的認識法を維持していた地域が
今日という、両極を同時に認識できる時代のために残されていた。
この「媒体」という科学技術の先、つまり意識の統合へ、両極性(ポラリテート)に向かう時代なのかもしれません。
2極化という分離、ではなく両極性という統合へ。
科学を発達させ、事物の差異を明確に理解しようと努める西洋の認識方法、
過去にあった意識がまだ残されていて、世界を融合対としてとらえる東洋の認識方法を。
科学は事物を自然から切り離した状態、言わば死んだ状態で物事を見ています。
事物はつながりのなかで、背景の中で見なければ、その生きたふるまいを認識することはできません。
灰色の紙を、色分解して数値で認識することはできます。
しかしその振る舞いは、黒い紙の上にある場合と、白い紙の上にある場合では全くそのあり方を異にしてしまうでしょう。
太陽を中心に、太陽系と呼ばれる惑星が回転していることが、事実であるとしても、
太陽が東から昇り、西に沈むという地球を中心にしたとらえ方も、われわれ人間にとって同等に事実であるのですから。
物質を細分化しても、それは物質にとどまっている。
しかしそこに大きな真実が隠されているのではないでしょうか。
物質は表面性である。ある本質を表面性として、
映し出すものとして「在る」のだと考えることができると思います。
媒体の技術ではなく、むしろ、つながるものの、生きた認識、その振る舞いに注目すべきなのだと思うのです。
そして、両極性(ポラリテート)を作り出すためには、第3の存在が必要になるのです。
その第3の存在を見出し形成する時代が必要なのではないでしょうか。
植物にみる「花への飛躍」を恐れずにしっかりと見ることが大切なのではないでしょうか・・・
亜希菜
■【亜希菜のコラム vol.7】
創造・・・伝えるもの
text= AKINA IWAHASHI
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ものごとを我々がとらえるとき、その客体の振る舞いによって、そのもの自体を知ることができます。
それは心の中に浮かぶ形容詞ではなく、単純に眼前に現れる個体でもなく、思考に映る名詞でもなく、
動詞でもない。それはその総体であり、その奥に光輝くなにものかでもあります。
つまり、形象は真実であると同時に陰であり、光を予見するものです。
身体を持つ、つまり物質体をもってこそ、この行為の場所にありえる我々にとって
行為は真実であるのではないでしょうか。
ここで言っている、行為とは形象であり、刻印である、という意味において、真実である。
という意味です。
花は花そのものとしてその本質をその姿と振る舞いに現わし、
香りが彼女の高次の実態であることを我々に告げています。
だからかたちの変更は、その様相を変化させますし、
異なった形は実態が違うものであることを意味しています。
自然に目を向けるとき、それは、飛躍を含む持続的な行為として現れるようです。
科学や哲学の誕生日を知りません。・・・・美学を除いては。
跳躍を取り除くことによって、それぞれの世界は思考に捉えられるようになる。
それをかつての人間は知っていたのでしょう。
だからこそ、自然科学はその世界を悟性にはっきりと示すことは出来ますが、
自らの世界を超えることができないのでしょう。
物事の振る舞いをしっかりと追ってゆくと、その跳躍を含む様相そのものが
その内実を教えくれます。
振る舞いを追うこと。それは持続を見ることが手を貸してくれます。
ものをつくるとき、かたちは結果として表れますが、形を捏造することが目的ではありません。
表現されるものに誠実に添う形を育てる行為だと思います。
ですから形を吟味することは伝えるものとして、つくるものとして十分吟味しなくてはなりませんが、
伝えることだけが目的になると、ものは不純物を含みます。
実態が抜け落ち、その中に我欲が住み着くことさえあります。
それは悪臭を放ちます。
だからこそ真摯に誠実に、あるがままを追うことが求められるのです。
そして世界を見るとき、ひとりひとり、すべての人が世界をつくっているありさまが見えてきます。
亜希菜
■【亜希菜のコラム vol.8】
光の誕生
text= AKINA IWAHASHI
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ドイツでは12月になると、クリスマスまでの4週間をアドヴェントと言って、
リースの中央に置かれた4本の蝋燭を1本ずつ灯をともしてゆきます。
冬至の3日後、大いなる闇のなかで行われる光の誕生の祝祭です。
光は大地に暖かさと明るさを与えています。
日の光の下事物ははっきりと我々にその姿を現し、
意識の中で関係性を結ぶことができるようになります。
光を集めたような存在=水晶の主原料であるケイ素(Silicon)は
現代において太陽電池や情報伝達を得意とする
コンピューターの部品の主原料になっていますが、
人間の神経系にも多く含まれる元素でもあります。
光は硬い物質、いわば闇の部分を我々に示す意識と深い関係があるのです。
このケイ素と近い存在としてリンがありますが、
赤リンはマッチの発火剤にも使われ、
もっとも一般的な白リンは暗所では光を放ちます。
この火と近い存在であるリン(Phosphorus)の語源は
ギリシャ語のphosphorosで、「光をもち来るもの」を意味しています。
物質という闇を照らす光は意識と深い関係があるのです。
何かを理解した時に「見えた」というのも意識と光との関係を物語るものと言えるでしょう。
物事を意識するということは自由への第一歩、きちんと歩むための基礎となるものです。
しかし現在我々は闇を見る小さな光をもつにすぎず、
その力を持ってますます闇の世界に沈もうとしているように思います。
闇の世界、つまり物質の世界を認識することは、この物質世界の理解のために
必要不可欠のものであったのは事実です。
光を闇の存在認識のために用いてはいたが、
光の存在そのものを意識してはいなかったのではないでしょうか?
それは我々が、我々の環境を意識せず、
原初的にあるものとしていることに似ています。
しかし我々の肺の中には酸素があり、二酸化炭素があります。
これは我々を取り囲む世界でもあります。ですから我々は
すでに外界を自らの内に内包している存在なのです。
この背景としてある存在や、光そのものを見つめる「意識」を持ち込む。
それを考える機会として、聖夜を迎えてみたいと思います。
亜希菜
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