【GANG ENGLSH vol.11】

nwa.

text= Tadashi Shichijo

 

航空会社のマイレージにはまってかれこれ10数年。自称「マイレージの達人」である。

遠くに行くときはスカイチーム系アライアンスを利用してマイルを稼ぐ。

ブラジルに行くときはUSA経由でデルタかコンチネンタル

アフリカへ行くときはEURO経由でKLMかアリタリアである。

この冬、マイルを消化するためにファーストクラス無料航空券でアジアのとある国へ。

ファーストクラスに乗るのは2回目だがメリットがたくさんある。

優先チェックイン、航空会社ラウンジ使用、優先搭乗、ウェルカムドリンクなど。

お楽しみのひとつはラウンジだ。

フリークエントプログラムでゴールドエリート以上になるとラウンジが使えるように

なるのだが、私は最高でもシルバー。

お酒・軽食も充実している航空会社ラウンジにはなかなか入れない。

滑走路を横目に出発前のひとときをゆったりしたラウンジの空間で過ごす。

贅沢な時間だ。

さてメインのお楽しみはやはりファーストクラス・シート。

アメリカ本土から到着した機材が日本を経由してそのままアジア諸国まで飛ぶ形なので

距離は短くとも大陸横断用のファーストクラスが味わえる。

前のシートまでの距離が1メートル以上ある。広い。

パーソナルTVは当たり前、電動で座席が自由自在に動く。

もちろんほぼフラットになって快適な睡眠が約束される。

そして電動マッサージ機がシートに組み込まれている。

まさに空を飛ぶ超快適空間である。

 

ちなみに今回利用した航空会社はノースウエスト。

NWAはノース・ウエスト・エアラインの省略形。

かっこよさに憧れてファーストクラスで世界を飛び回る・・なんてのが実は昔からの夢。

最近、世界を自分の目で見たい!という若者が減っていると聞く。

インターネットで世界中の情報を簡単に得られるし、

テレビ取材班も世界の秘境という秘境にまでカメラを入れて

お茶の間にその映像が流されている。

それで「わかったような気」にならざるを得ない環境ゆえ仕方ないことかもしれない。

だけど、ファーストクラスの心地よさは実際に体験しないとわからない。

一度体験したら病み付きになる。

もうそれなしでは生きてはいけなくなる。

いつかは「仕事」でファーストクラスに乗れるようになりたいものだ。

 

●解説【nwa. /ノースウエストエアライン】

英語版省略形といいますか、探せばいっぱい出てきますね。JAL(ジャパンエアライン/日本航空) JR(ジャパンレイルウェイズ) FBI(Federal Bureau of Investigation/連邦捜査局) NFL(ナショナルフットボールリーグ) TDL(東京ディズニーランド) LA(ロサンゼルス) NY(ニューヨーク) YG(読売ジャイアンツ) などなど。日本ではコンビニ(=コンビニエンスストア)という省略形が従来強かったですが、最近になって KY(=空気読めない)などの英語風省略バージョンも多くなってきましたよね。 「言い易さ」って大事。

 

文/七條正(しちじょう・ただし)
---------------------
■七條正プロフィール
元公立中学校英語教諭。公教育の枠に収まりきらず退職。
その後、魂のルーツを求めて世界各地を放浪。ブラジルで運命の打楽器「チンバウ」に出会う。
東京銀座創業の「七海人(なみんちゅ)」代表。
ツールは各次元エンターテイメント、キーワードは「調律」「チャンネルを合わす」「呼び起こす」「エネルギー」「自己発生」「触発する」。

■七條英語塾(マン・ツー・マン)= 【大人は銀座で、子供は家庭教師で開講中】 詳しくはコチラ

■七條英語塾の卒業生からのコトバ

英語を通して生き方広がる『七條塾』

七條先生に英語を教えてもらって、一番変化したのは、私にも英語が出来るかもしれない!楽しい!と思えたことでした。英語コンプレックスの私は、海外に行く度、次回こそ英語をマスターして困らないようにしたいと誓い、習ってみるのですが、余計コンプレックスを助長されるような内容で、長続きしませんでした。七條先生は、私の実力に合わせて授業を進めてくれて、分かりやすいので、毎回とても楽しく、グングン実力がついてゆく実感があるのです。そしていつも、誉めて励ましてくれました。また、授業の合間に関連して話してくれる、ご自分が海外で体験された会話の1コマも、英語のみならず、民族性や文化の違いを感じさせるワクワクするお話でした。七條先生の人を育てる天性の才能は、一人一人の心に寄り添うことが出来る教育者であることだと思います。子供の頃こんな先生がいたら、もっと広い視野を持てて、人生変わったかなと思いました。子供から大人まで幅広い年齢の方が、七條先生に英語を習うことを通して、英語をマスターするのみならず、いろんな『自信』をつけてもらえてるような気がして、もはや自然に『七條塾』が、私たち生徒の数だけ誕生してる…そんな夢のある、あったかい英語塾です。(30代女性)

■関連記事

・ノースウエスト航空ワールドビジネスクラス (NWAではファーストクラスのことをこう呼ぶ)


■Heiz新価値度70(ナ度100・TQ度100・BQ度100・銀座度0・EDGE度50)

マイレージの達人になってかなり無料で旅行されたらしいですよ。(編集部)

 

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BE☆SEE 第11号 Jan.2009

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【GANG ENGLSH vol.12】

transcontinental

text= Tadashi Shichijo

 

2/27 東京1

七條@東京です。
2月28日から12日間の
レンタカーでのアメリカ大陸横断を
アメリカから画像付きライブメールを
お送りします。

この旅のきっかけは
ある鹿児島の女性との出会いでした。
19歳の息子にぜひあって欲しいと
言われたのが昨年の10月。
息子は中学時代勉強に励んで、進学校に入学したが
そこで生きがいを感じられず不登校に。
そして卒業式の前日に退学届けを出すという
なかなかそのあたりにはいない人物。

高校での最後のホームルームで、
「自分は旅にでていろんな経験を積むのだ。」
ということで、すぐに東京に出てきて、
知り合いのところに居候をしながら
アルバイトをしたり、新しくできた人脈をたよって
東北を渡り歩いていた頃に私との出会いがあった。

彼の母は「アメリカ大陸横断」が私の数年前からの
目標であったことを知り、息子にいろんな経験をさせて
やりたい一心。11月、新宿で彼と会い、話をしたが
彼もこれから世界を周りたい、その手始めとして
アメリカ横断がしたい!!と熱望。
東京で仕事についていたが、なんとか頼み込んで
12日間の休みを取ることに成功。

彼の提案のおかげで私の目標も達成できるし、
彼の望みもかなえられる・・・。
かくして大陸横断ツアーは実現にいたるのである。
しかし、過去の経験から二人きりでのドライブは
なにかと問題がある。(詳細省く)
そこで同行者の追加を考えたのだが、直感でピンと
きたのが17歳の京都の少年である。

2/27 東京2

七條@坊さん(←ある筋からのあだ名、気に入っている)〜東京発です。

さて19歳のU君との大陸横断。
同行者としてひらめいたのは京都の17歳の少年。

話は2年前にさかのぼる・・。

彼は、私の中学教師時代の元担任クラスの生徒である。
仲の悪い両親のもとで育っており、
中学3年生の3学期、受験を目の前にして
不登校に陥ってしまった。

彼には熱く語る夢があり
それは「映画」と「遺跡」であった。
外国へ行きたい!!違う世界を見てみたいという
強い希望を持っていた。
家庭訪問を何度も繰り返し、
なんとかして彼のエネルギーを取り戻す方法を
考えた結果、
「受験が終わったら合否関係なく一緒に海外へ行こう」
という提案をすることにした。
もちろん、一公立中学教諭としては完全な越権行為で
あるのは承知の上、親に話を通し、
学校には内緒で旅の計画を進めたのだ。
(副担のH林先生、ごめんなさい。)

「来たくなければ学校には来なくてよい。」と私は彼に言い、
学校では「お前のクラスの生徒はどうなってるんだ!?」
と同僚からたたかれる状態が続き、この頃から私は学校の限界を
感じるようになっていた。結論は「学校は組織を維持するところ」
であり、「子供たちの潜在能力を開発するところ」ではなかった
ということ。いい教師はたくさんいるのだが・・・。

誰もが無理だと言った第一希望の高校に
彼は合格することができた。
春休みに二人でロサンゼルスのユニバーサル・スタジオに
行った。「来てよかった〜」という彼の笑顔を
忘れることはできない。

その後、高校では野球部に入ってがんばっているという
情報のあと、夏休み明けくらいから完全に不登校に
なってしまっていた。
実は母親が家出。父親は長距離トラックの運転手で月に1〜2度しか、
帰ってこない。中学生の妹と小学生の弟は施設に引き取られる。
彼は一人きりで家(公団住宅)で暮らすことに・・・。
一家は離散、とても高校へ行ける状態ではないのは明らかだ。

時々彼の家を訪ねた。
父親からお金をもらっていたが、それも尽きて
腹を減らしていたときもある。
金を貸そうか、というと、頑なに拒んだ。
本棚にならんでいる漫画を売れば、まだ食べていけると言った。
毎回携帯の番号だけ渡し、彼のたくましさを感じて
彼の家を後にしたものだ。

それでいよいよ、今回の旅に彼が参加することになるのだが、
続きはまた次回〜。

2/28 東京3

こんばんわ。
七條@坊さん〜東京発です。

さていよいよ出発が明日に迫りました。
鹿児島のU君はすでに東京入り、
京都のO君は夜行バスの中・・。
その17歳O君が旅に加わることになったその訳は・・

「横断のロードムービーを撮らせよ」
というインスピレーションが私に来たのであった。

以下のような提案を11月に彼の家を訪れしてみた。

1.ビデオ係のバイトをしないか?
2.飛行機代はかからない。
  (私のマイレージバンクで無料航空券が手に入る)
3.バイト料は米国滞在費(レンタカー代、宿泊費、食費など)
4.ビデオは帰国後編集し、DVDに仕上げるので責任重大。(プロに契約済み)
5.ビデオテープから静止画をパソコンに取り込み
  現地からライブメールとして日本の皆さんに配信するので
  これまた責任重大。

「映画」好きな彼の監督作品第一作なのである。

1月、彼には連絡場所を教えていた母親とコンタクト、許可をいただく。
2月、父親から連絡の要請がある。「父親にも許可を取れ」という感じ。
しかし電話で話してみると、父親は若いときブラジルへの旅を
周りの猛反対でとめられて、それを今でも悔いているとのこと。
こんな父親だが、息子にはできるだけのことはしてやりたいんだ、
みたいな話になり、まるく収まった。

しかしここで問題発生。
二人の10代の保護者(?)兼3人目のドライバーがどうしても欲しかったのだ。
何人かの知り合いに当たってみた。
目黒のK平ちゃん、松江のS家君、今宮古島にいるSぐっち、杭瀬のN川さんなど・・・。
しかし、皆それぞれの生活、予定があり〜・・みたいな感じで半ばあきらめていたとき、
つよ〜い味方が現れたのであった!!!

2/28 東京4

こんにちは。
七條@坊さん〜成田空港です。

成田空港に無事4人揃いました。
4人目の助っ人S田さんとも合流し、
後は両替をして、出発を待つばかり。

私以外の3人はノースウエストの
マイレージにこの場で入会を済ませ
ハッピーな気分。

では各人から一言:

鹿児島のU君:一日が40時間あるそうなので得した気分です。
      (帰りはチャラですよby坊さん)
助っ人のS田さん:アメリカ大陸横断ウルトラクイズなしで、行ってきます。ははは
・・。
京都のO君:ま、がんばりますわ。

では次回はカリフォルニア州から

3/2 グランドキャニオン

七條@坊さん〜アリゾナ州です。
訳あって、長い文は打てませんが、
4人とも元気で順調です。
ロサンゼルスのサンタモニカビーチから
夜のラスベガスまでが一日目。
全員(?)カジノで負けて、(未成年もやっちゃったあ)
今日はグランドキャニオンへ。 

壮大!!(私) 
静寂!風を見た!!!(K君)
なんじゃこりゃ〜(U君)

と、ここはここを経験した者でしか
わからないなにかがあります。

ライブを伝えるのは本当に難しい!!!!!

明日はモニュメントバレーから
エネルギースポットのセドナ
(Tさん、情報ありがとう!!!!)

徹夜でぶっ飛ばしてあと40時間後くらいに
今度はニューオリンズからライブをお届けします。

ではまた次回をお楽しみに!!!
SEE YA !!

3/4 モニュメントバレー

七條@坊さんです。
ニューオリンズのMAISON DUPUYからのライブです。

二日目、グランドキャニオンから4時間くらいかけて
モニュメントバレーの近くの町まで車を走らせる。

途中、ホントに何も光がない場所で車を停め、外へ出て空を見上げる。

「!!!!!!!!!!!!!!!!!」・・・言葉にならなかった・・・。

前後左右・東西南北の地平線までぎんぎんに輝く星!星!星!星!星!星!星!

なぜか笑うしかなかった。みんな大声で笑っていたのだ・・。

その日のお泊りは Holiday Inn。
今度は朝日に輝くモニュメントバレーを見るために全員6時に起きて、
20マイル先にあるビュートたちに会いに行く。

ここも言葉にならなかった。

谷に入るにはゲートで入場料(3ドル)を払わなくてはならない。
そのゲートから見る景色もすごいが、谷の中に車で入っていくと、
その赤く染まるビュートがリアルに迫ってくる。
The Hub と呼ばれる岩山のそばで車を降りる。
全員岩に向かって走り出す。
岩山の上まで駆け上って、そこからの景色を見渡す・・・。
日は昇り、青く澄みわったった空とのコントラスト。

圧倒された。

静かだ。  

風の音が聞こえる。

心地よい。

大地のエネルギーに包まれているようだ・・。

天と地とわれわれの体が魂も一体化している。

どれだけ長い時間そこにいただろうか・・。

どれだけそこにいても飽きない。

ずっとそこにいたい・・・。

みんなで大声を出した。

近くにある岩山、遠くにある岩山、ずっと遠くにある岩山たちに

なんどもこだまする。

この土地の原住民ナバホインディアンのシンボルは青・白・赤

青い空と白い雲と赤く焼けた大地・・・・わかる気がする。


というわけで必ずここにも一生に一度は訪れてください。
イエイ!!!!

3/4 セドナ

七條@坊さんです。
さておまちかね。
アリゾナのエネルギースポットの「セドナ」に行って参りました。

河によって侵食されてできた谷にある小さな町でした。
グランドキャニオンの谷底から上を見上げたようでもあるし、
モニュメントバレーのビュートの上から平原を見渡しているようでもあるし、
なんか不思議なところでした。しかし緑の多さがとても印象的。
行ったのは「エアポート・メサ」と呼ばれる町全体360度が見渡せる
小高い丘の上。(Tさん、ナビ完璧でした。ありがとう。)
迫力、という店ではグランドキャニオンやモニュメントバレーに
劣るかもしれない。

しかし、私が感じたのは・・・・

1.自分の中心が丹田にじわーっと落ちていくような感じ。
  (Sンパシーのバイオソニックでゆすられているような感じ)
2.眺めなども含め、飽きることがなく、いつまでもここにいたい、という感じ。
3.BGMなど人工的なものは必要ないという感じ。
4.「うおーーー」とか叫びたいとは思わなかったという感じ。

30分ほどエアポート・メサにいて、
あとはお土産屋を周りましたが、
そうするうちに手の平が「びりびり」して来る感じがありました。
これはセドナにはいって1時間半くらいたった時のこと・・・。
かなりはっきりとこれについては感じられました。

というわけで旅の予定があったので長い時間はいられませんでしたが、
ぜひもう一度ゆっくり訪れてみて、体が何を感じるかを
確かめてみたい場所なのでありました。

そこから車を走らせ今日の午後にテキサスのヒューストン。
ここではNASAの宇宙センターに参ってきました。
で、夜中11時にジャズ発祥の地、ルイジアナ州のニューオリンズに到着。
すぐに夜のバーボンストリートに飛び出し、一杯ひっかけて今、部屋から
ライブメールをお届けしています。

旅は4日目の夜を向かえています。

明日はおそらくフロリダ州オーランドの近郊からライブをお届けできると
思います。
明日の内容は1ヒューストンのNASAと2.ニューオリンズについてです。
では明日もお楽しみに〜♪

3/5 フロリダ

七條@坊さん〜フロリダ発です。
オーランドまであと一時間半くらいの
小さな町からです。

ヒューストンではNASAのロケットセンターで見学。
これについてはもう少し後で
すごい画像をお見せします。

さて昨夜のニューオリンズでは
音楽ライブをしている酒場、ストリップ・バー
土産屋、レストランなどがひしめく
かの有名なバーボンストリートで
なんと自由行動タイムに入った。

S田氏は生バンドの入っているバーで
踊りまくる。
O君は何をしていたか不明。
U君は大きな声では言えないが
***ッ*・**や***を5軒まわって
2時くらいにホテルに帰ってきた。
ホテルがストリートから近くだったので
できた技である。

翌朝、4人でミシシッピ河を望み、
ケイジャン料理を食べに行く。
陽気でフレンドリーなウエイターのエディ。
(エディ・マーフィーに似てたので勝手につけた)
私は店内のピアノの飛び入り演奏に参加。
曲はコードの練習用に使っていたもの(野田氏作Cコード展開曲)
をジャズっぽく(?)弾いた。
でも3ヶ月くらいピアノに触ってなかったので
実力の半分も出せなかった・・。
また、練習せねば、というモティベーションになった。

S田氏によれば途中、店内の空気が変わった時間があった・・
ということ。うれしいことを彼はいつも言ってくれる。

ニューオリンズはいい街だ!!とみんな言っていた。
少年たちは特に自分の足で、自分だけの責任で動けた部分が
よかったのではなかっただろうか。
車に乗り街を後にした頃、英語のこの発音はいいか?とか
突如としてU君もO君も私に確認を求めながら練習を始めた。
(私は一応元英語教師〜♪)
thの音。bとVの違い。waterのこちらの発音などなど・・。

彼らはそれを明日のレストランやガソリンスタンドやいろんな
場面でそれを使って英語を自分の物にしていく・・・。
なんか、「学ぶこと」の本質を彼らの中に見たような気がした・・。

明日はいよいよ「ディズニーワールド」に乗り込む。
予定では自由行動タイムをとる。

また少年たちの自分だけの旅が始まるのである。

明日の宿泊予定地デイトナビーチからのライブを
お楽しみに。
ではでは。

3/7 リッチモンド1

七條@坊さんです。

今日はフロリダから北上して一気に
ワシントンDCまであと一時間の
バージニア州・リッチモンドに来ています。

昨日オーランドでは
「エプコット・センター」に行きました。
世界各国のワールドショーケースと
環境などがテーマのパークでしたが、
ニューオリンズがあまりにも刺激的過ぎたのか、
疲れも溜まっていたのか、
私を除く3人の反応はもうひとつ(?)の
ようでした。しかしO君はかなり気にいったらしく、
車に乗ったとき、「グッバイ・エプコット」と
叫んでいました。

私は自由時間の3時間の内、一時間は昼寝、
そのあと世界各国の文化を紹介する
パフォーマンスを見たりしていましたが
お薦めベスト3は

1.アフリカのドラムの体験
  これは10人ほどで輪になって
  ドラムをお客さんの前で敲くことが
  できるもので、私の専門でした。

2.中国雑技団。
  バランスや体の柔らかさなどを
  ショーとしてみせる、おなじみのものですが、
  子供たちがかわいかったのが印象的でした。

3.日本の和太鼓。
  「スゴイ」の一言。
  東京から来ている、CDも出している
  たぶん「MATSURIZA」と呼ばれる
  3人組みのグループでした。
  日本人であることを誇りに思える時でした。

O君が印象に残ったことは・・・。
1.メキシコのパフォーマンスの
  女性ダンサーのくねくねダンスと
  初めて見た楽器(ギターのようなドラムマシン?)
  
2.アメリカのパフォーマンスで
  アカペラソング(曲名はよく耳にするアメリカの民謡?)
  だったそうです。  

S田氏、U君ともそれぞれ各自で行動し、5時に集合し、
くる時に見つけた「アウトレット」にどうしても行きたいっ
というs田氏の強い希望により、そこへ向かうことに・・。

しかし、この後とんでもないトラブルが
待ち受けていたことをこのときは誰も知らなかった・・・。

ロスアンゼルスから3000マイルを走り続けてくれた
愛車「オールドモービル」号に異変が生じていたのだ・・・。

つづきは次回号で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【旅先で耳にしたギャングな英語 vol.13】             Mar.2009 BE☆SEE 13号 

Accidents

text= Tadashi Shichijo

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数年前、不登校生徒と行ったアメリカ大陸横断の旅。当時まだブログやmixiなどもなかった時代、ノートパソコンを持参して現地でネットにつなぎ日本の友人たちに「横断ライブ」と称してメール配信していた記録をBE☆SEE上でリバイバル発表。ロサンゼルスからアメリカの南側を通ってニューヨークまで、七海人の原点とも言えるこの旅の記録をお楽しみください。

 

3/7 リッチモンド2

七條@坊さんです。

愛車「オールドモービル」号の液晶パネルに

"survice engine soon"

という表示が突然表れたのだ。

アウトレットまで走る。
安く買い物ができる巨大なショッピングモールだ。
S田氏はジーパンを、U君は時計を買っていた。

そこでボンネットを開けて、調べてみる。
オイルは・・・・汚れていたが・・・
大丈夫みたい・・・。
冷却水が少なくなっている・・・ような
感じがする。
ということで、コーラの空きペットボトルに
噴水の水を汲みに走るS田氏とO君。

水を満杯いれてもサインは消えない・・・。

車は動くのだが、万が一どこかで動かなくなるかもしれない。
修理工場を見つけるのは至難の業。
スーパーでオイルを買って入れてみようか・・など考えたが
「アラモレンタカー」の営業所で見てもらうのが一番無難と考え、
オーランドの国際空港なら営業所がある。
スーパー観光地のオーランドに営業所がなかったら
モグリだ、とふみ、空港へ向かった。

空も暗くなって、空港に到着は30分後。
ふつう空港には「レンタカー・リターン」のサインがある。
しかし、そこには「アラモ」の会社は入っていなかった・・。
一同ショック。
ターミナルが二つあったので、もう一つの方へ向かう。
また「アラモ」のサインはない。全員汗。
車を止めて空港内へ入り、「アラモ」はないのかとたずねる。

すると空港の外にあるという。
営業所の外までバスがあるので、それについていこうと考える。
そうして、空港内をまわっていると小さく、ホントに小さく
アラモのサインがしてあったのを見つけた。
「**号線へでて東へ」とある。
バスを待つのではなく、指示をたよりにそこへ向かう。
空港内でうろうろ30分以上、営業所までまた道を
間違えたりして30分以上・・・・。

営業所では Car change ということになった。
一同胸をなでおろす・・・・

ニューヨークまでの愛車の名前はなんと「セドナ」号。

なんか運命めいたものを感じながら一路北上を開始する。
ところが、トラブルはまだ続くのである・・・。

続きは次号で・・・。

 

3/7 リッチモンド3

七條@坊さん〜リッチモンド(バージニア州)です。

さて一路ニューヨークを目指して走り出した「セドナ」号・・・。
その日に運転していなかった19歳U君が運転したいと言い出す。
その言い方が気になってはいたのだが、交代する。

・・・実は旅の3日目、セドナからニューオリンズまでノンストップの
夜行ドライブで彼が運転していた時、私も助手席でつい
居眠りをしていたのも悪かったのだが、
彼が追い抜きに失敗して、大事故になりかけたことがあったのだ。

その「キーーーーッ」という急ブレーキで私もS田氏も目を覚まし、私が目を覚ますと
走行車線の前を行く車に猛スピードで突っ込んでいる映像が飛び込む。
見る見る内に車間距離が縮まり、もうこれはダメだ、というところまできて
その時間は1〜2秒くらいのだったと思うが、妙にスローモーションに思えたものだ。

私たちの乗っていた「オートモービル」号は奇跡的におそらく数センチ前で
衝突を避けることができたのであった。

19歳のU君。いくら免許を持っているとはいえ私やS田氏とは運転の経験がちがう。

そして実はレンタカー屋の規約で19歳は登録ドライバーの資格がなく、
万が一事故が起こったときはフルカバーでかけている保険が利かないという
事実があった。
しかし大陸横断を達成するためにはドライバーは多いほうがいいので
彼の力もどうしても必要だったのだ。
当日は朝6:00起きでみんな睡眠不足だったのだ・・・。

車には「天然塩」というお守りを積んでいたのでそのご利益もあったのかと思い、
私もS田氏も「いい経験だ〜」とプラス思考で彼にアドバイスをしていた。

そして5日目、ニューオリンズを出発し、アラバマ州に入ったところで
これもU君の運転中、ついにパトカーに止められてしまったのだ。
英語が話せないU君に代わり、私が車から降りて話しを聞いた。
「追い越しの時、前の車との車間距離が短すぎるのが2回あったので警告した。」
ということで済んだ。

結構いままでスピードを出してある意味少し調子にのって、
追い越し車線ばかり走っていたU君・・。
私やS田氏に負けまいと(私はそう感じていたのだが・・)
彼なりにがんばっていたのかもしれないが、この時ばかりはショックだったのか、
それからの運転は非常に安全なものに変わっていて、
「経験が人を成長させるんだなあ」なんて思っていたのだ・・・。

しかし、このオーランドで彼が「運転したい」と言ったときは
なんか嫌な感じがしており、その予感は見事的中してしまったのだ。

このときも運転のU君以外はつかれて眠っており、
私が気がつくと後ろで青い光がピカピカまわっている。

U君に止まるように指示。
フロリダ州警察の警官がやってきて
U君のパスポートとレンタカーのサーティフィケイト
出せと言われる。
彼はそれらをもって
うしろにとめているパトカーに帰ってしまった。
待つこと10分・・・・。
15マイルのスピード違反ということで罰金切符をきられ、
やはり追い越しの時の車間距離が短いことを警告されたのだ。

さすがに大ショックのU君。
あと運転も2日なのでこれからは私とS田氏で
運転することにすることにも彼は納得。
このときばかりは私もS田氏もきびしめの
アドバイス・・・。
彼がどう受け止めているか・・・・。

その夜はあと一時間後の大西洋に面したデイトナビーチに
泊まろう、ということになった。
ここで大西洋の水を触れば一応横断は達成になる。

しかしトラブルはこんなときにかぎって
続くのである・・・。

続きはすぐ。

 

3/7 リッチモンド4

七條@坊さん〜バージニアです。

さてデイトナビーチ・・・。

夜なので暗かったが
街に入ると、右手に巨大なデイトナサーキットが姿をあらわす・・。
そしてやたらバイクが多い。
もちろんハーレーダビッドソンに服装もばっちりきめた人たち・・。
レストランに入る。
中は・・・・、

バイク野郎たちで埋め尽くされている・・・・。

彼らの視線や、その雰囲気に負けずに店内へ入り
食事をする。S田氏は町の雰囲気が感じられる
レストランということでご機嫌。

さてお腹もいっぱいになり、この辺に宿をとり、
明日の早朝は海岸に水をさわりに行こう・・
と近くのモーテルに行くが・・・・。

駐車場はバイクと車でいっぱい。
一軒目:ワンベッドの一部屋しか空いてない。
二軒目:空きはあるが一泊220ドル!!!
この街には何かイベントがあり、
ホテルやモーテルは予約でいっぱいで
値段も上がっているのだと直感。

フリーウェイに乗り10分ほど走り
隣の町で降りてモーテルへ。
状況は同じ。
一部屋しか空いてなかったり、
一泊100ドルを超えるところばかり。

またフリーウェイに乗り隣町へ。
また状況は同じ・・・。

次は隣の隣の隣の町で降りてみた。
恐ろしいことにまた状況は同じ・・・・。

時計は12時を超え、さらに
北へ走る。いろいろあって
疲れはピークに達していた。

一時間ほど北上した街で
やっと一泊86ドルのモーテルをみつける。
実はU君とO君、お金を使いすぎていたので
宿泊費を安く上げたいと希望していた・・。

そこで必殺技:ツインベッドルーム一つを借り、
二つのベッドを分解して4ベッドにしてしまうことが
できるのだ。わはははははーーーー。これで一泊一人22ドル弱。

毎年このシーズンにデイトナでは「バイク・ウイーク」が
行われるそうだ。
全米からバイク好きが集まり、集会や発表会やレースが
あるそうだ。金曜にはメインの200マイルレースがあると
いうこと・・。これで納得。
デイトナから一時間のこの街のモーテルも
明日は96ドル、明後日は120ドルと値段がつりあがるそうだ。

私を除く3人はすぐに死んだように眠る。
私は眠い目をこすりながらインターネットをつないでみるが、
一日目のラスベガスと同じように繋がらない・・・。
30分いろいろためしてみるが、ダメ。
あきらめて寝る。

朝11:00まで爆睡。そこから夜の10:00には
今いるリッチモンドまで。
S田氏は夜のバーにでかけ、30分ほどで帰ってきた。
変なやつにからまれたそうだ。
しばらく4人で励ましメールを見ていたが、
一人一人眠っていく。
今、深夜の2:40分。ヘッドホンでパソコンに入力してある
音楽を聴きながら、一人ライブでメールを打っている。

明日は午前中にワシントンDC、それから東海岸のカジノといえば
ニュージャージーのアトランティック・シティ。
そして夜にはいよいよゴールのニューヨークにはいる。

ながかった大陸横断の旅もいよいよゴール。
しかしNYではまる2日滞在する。
まだまだ我々の旅は続くのである。

応援を引き続きお願いいたします。
応援メールもお待ちしております。

七條 正

 

3/8 ニューヨーク1

七條@坊さんです。

ついにニューヨークに着きました〜♪
しかし道中はたいへんでした・・。

今日は午前中、ワシントンDCを見学。
リンカーンメモリアルとスミソニアンの
自然史博物館を見て一路ニュージャージーの
アトランティックシティへ!!!!

ワシントンDCから町の外に出るときの運転は私。
助手席のナビゲーターは17歳O君であった。
ところが思いのほか、DCの地理はややこしく
彼にはナビができない・・・。
かなり迷ってワシントンを出ることができた。

その後S田氏が運転、19歳U君がナビ。
ところがアトランティックシティへ曲がる
道を見落とし、かなり迷ってやっと正しい道へ
出ることができた。

「地図ではこうなって、こうなってるんですけど・・・」
と高速を走っている運転手に言ってもどうしようもない・・。
運転手は「どこで、どう曲がるか」の情報だけがほしいのだ。

伝えることの難しさをひしひしと感じていたU君とO君であった・・。

さてアトランティックシティまでの道のり、S田氏とU君が
妙にうかれてカジノの話に花を咲かせていたのが気になっていた。
旅もいよいよ最後になり、経験上最も事故や不注意が起きやすい時・・。

さて東海岸のカジノのアトランティックシティ。
90分の自由時間に各自活動開始。
私とO君はマクドナルドでの夕飯に一時間をかける。
食べながら人生の話をしたりする。
その後20分だけスロットマシーンをし、
私はなんと30ドルの儲け。
O君は5ドルの負け。
S田氏は負け。(金額不明)
そしてU君はなんとルーレットで55ドルの儲け。

車に乗り、運転はS田氏。
やはり負けて少しがっくりきているのがわかる。
ところが、初めてカジノで勝ったU君は
うれしくて仕様がない様子で、S田氏の気も知らず
しゃべりまくる・・。
助手席の私もどうしていいのやら・・。

カジノに来る前まではおおはしゃぎだった二人。
今は明暗がくっきりと分かれている・・・。

と、その時うしろで青い光がくるくるまわっているのを発見・・。
まさか、のスピード違反切符だった・・・。
今まで常に後ろにだけは気を配って、飛ばしに飛ばし、
距離をかせいでくれていたS田氏・・・。
最後の最後でその気配りを忘れてしまった、と言っていた。
嫌な予感は的中してしまったのだ。

しかしその後気を取り直して、
ブルックリンからマンハッタン入り。
左手に美しい
摩天楼を見ながら、みんな息を呑んでいた。

NYのホテル・・高くていいところが見つからない。
というわけでニュージャージーのモーテルに
泊まっている。ただいま深夜2時。
今日もベッド分解攻撃。

明日はホテル探しからスタートする。
滞在は2日間。まだ旅は続く。

Anyway, we are in New York!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【旅先で耳にしたギャングな英語 vol.14】             Mar.2009 BE☆SEE 14号

I won't be afraid.

3/8 ニューヨーク1

七條@坊さんです。

ついにニューヨークに着きました〜♪
しかし道中はたいへんでした・・。

今日は午前中、ワシントンDCを見学。
リンカーンメモリアルとスミソニアンの
自然史博物館を見て一路ニュージャージーの
アトランティックシティへ!!!!

ワシントンDCから町の外に出るときの運転は私。
助手席のナビゲーターは17歳O君であった。
ところが思いのほか、DCの地理はややこしく
彼にはナビができない・・・。
かなり迷ってワシントンを出ることができた。

その後S田氏が運転、19歳U君がナビ。
ところがアトランティックシティへ曲がる
道を見落とし、かなり迷ってやっと正しい道へ
出ることができた。

「地図ではこうなって、こうなってるんですけど・・・」
と高速を走っている運転手に言ってもどうしようもない・・。
運転手は「どこで、どう曲がるか」の情報だけがほしいのだ。

伝えることの難しさをひしひしと感じていたU君とO君であった・・。

さてアトランティックシティまでの道のり、S田氏とU君が
妙にうかれてカジノの話に花を咲かせていたのが気になっていた。
旅もいよいよ最後になり、経験上最も事故や不注意が起きやすい時・・。

さて東海岸のカジノのアトランティックシティ。
90分の自由時間に各自活動開始。
私とO君はマクドナルドでの夕飯に一時間をかける。
食べながら人生の話をしたりする。
その後20分だけスロットマシーンをし、
私はなんと30ドルの儲け。
O君は5ドルの負け。
S田氏は負け。(金額不明)
そしてU君はなんとルーレットで55ドルの儲け。

車に乗り、運転はS田氏。
やはり負けて少しがっくりきているのがわかる。
ところが、初めてカジノで勝ったU君は
うれしくて仕様がない様子で、S田氏の気も知らず
しゃべりまくる・・。
助手席の私もどうしていいのやら・・。

カジノに来る前まではおおはしゃぎだった二人。
今は明暗がくっきりと分かれている・・・。

と、その時うしろで青い光がくるくるまわっているのを発見・・。
まさか、のスピード違反切符だった・・・。
今まで常に後ろにだけは気を配って、飛ばしに飛ばし、
距離をかせいでくれていたS田氏・・・。
最後の最後でその気配りを忘れてしまった、と言っていた。
嫌な予感は的中してしまったのだ。

しかしその後気を取り直して、
ブルックリンからマンハッタン入り。
左手に美しい
摩天楼を見ながら、みんな息を呑んでいた。

NYのホテル・・高くていいところが見つからない。
というわけでニュージャージーのモーテルに
泊まっている。ただいま深夜2時。
今日もベッド分解攻撃。

明日はホテル探しからスタートする。
滞在は2日間。まだ旅は続く。

Anyway, we are in New York!!!

3/9 ニューヨーク2

七條@坊さん〜NYC(New York City)発です。

今日は10:00にニュージャージーを出発し、
11:00にNY在住のA野さんとお会いしました。

A野さんには前回11月にNYに来た時からお世話に
なっているのですが、
今回もオフィスでコーヒーをいただいた後
日本食レストランに行き、まず全員ビールで乾杯!!

このときなぜか「大陸横断達成!!」の嬉しさが
こみ上げてきてしまった・・・。
このビールのうまさは、なかなか味わえない・・・。

若者たちはA野さんといろいろ話をしたり、
お話を聞いたり、すごい影響を受けていた様子。
なによりも横断の目的地で厚いもてなしを
受けたことに感激していたようだ。
結局、今回も4人分のランチ(ビール付き)を
ご馳走になり、さらに会社と契約している
ホテルを会社価格で予約していただいたり、
何から何までお世話になったのである。

そのホテルは「スタンフォード・ホテル」
一人一泊40ドル強で10階から下界が見下ろせる
スウィートルーム!!!!!!

休む間もなく、私とU君がレンタカーを空港まで
返しに行く。
ニュージャージーのニューアーク空港まで行き、
無事リターン終了。

ホテルに帰るのにバスを使ったのだが、
隣にすわった白人の紳士と話が弾んでしまった。

彼はテネシーの老護院(?)に入っている母(89歳)を
尋ねていった帰りだそうだ。
職業はミュージカルの指揮者&プロデューサー(なんと!!)
NYのブロードウェイミュージカルで若いときはダンサーと
シンガーとして活躍し、指揮者なども経験する。
その後、独立。デンマーク、アルゼンチン、日本など
世界各国でミュージカルの公演をしているそうだ。
 

彼にひとつ頼み事をした。
19歳のU君に「英会話」の体験相手を頼んだ。
もちろん快く引き受けてくれ、ゆっくりした英語で
やりとりをしてくれた。彼も外国で暮らしたことがあるゆえに
語学の難しさや、学びのポイントをしっかり押さえていて、
一流の教師のようでもあった。

「英語を話すときは間違いを恐れちゃいけないよ。
 僕は恐れない。って言ってごらん。そうだ。いいよ。」
"When you try to speak English, you don't need to be afraid.
Say I won't be afraid. Ok, that's good."

「よく聞いて、それを真似するんだ。」
"Listen, and react."

「学ぶための唯一の方法は間違いをしてみることだ。」
"The only way to learn is to make mistake."

ジョークもなかなかうまい。
ニューヨークとマンハッタンのちがいがわからないU君に向かって・・。

彼:今バスが走っているところはニュージャージーというんだ。
  (窓の外に広がる摩天楼を指さして)あれがマンハッタン。
   マンハッタンはニューヨークにあるんだ。わかるか?
U君:あー、マンハッタンはニューヨークなんだね。
私:(口を挟んで)ニュージャージーとニューヨークの違いは?
彼:いい質問だ。ニュージャージーってのは「変」(strange)なところなんだ。
私:「変」なところ? じゃニューヨークはどうなんです?
彼:ニューヨークはすばらしいところ(faburous・・スペル?)に決まってるじゃないか。(笑)
私:それは自分がニューヨークにすんでるからそう言うんでしょ?
彼:あったりまえよお〜! わっはっはっは!!!

私も彼もU君も大笑い。思わず周りの席に座っていたおばさんも笑い出す。

彼:(笑いやんで、真剣な顔でU君に向かって)
   すまん、すまん、今のはほんのジョークだよ。
U君:ジョークなんだ・・。
彼:でもな、それは事実なんだ。わっはっはっは!!!(またみんなで大笑い)

後で「あの人みたいになりたいよ〜」とU君は笑顔で言っていた。
堅い握手をして別れたその紳士の名は「ジーン・フット氏」。
すごく有名な方だったりして・・・。

S田氏とO君はちかくのエンパイヤーステートビルに登りに行っていたらしい。
その後4人で合流。近くの韓国人街の焼肉レストランで焼肉を食べる。
うまかった・・・・。
そしてNY一日目の夜は更けていくのである。

今3月9日午前7時40分。一人起きてメールを打っている。
今日はどんなドラマが、どんな出会いがあるのだろう・・・。

明日はNYから最後のライブメールです。
まだ少しライブメールは続く予定です。
最後までstay with us.

3/10 ニューヨーク3

七條@坊さん〜NYCです。

今日は朝から自由の女神像のスーパー観光コース。
ところが、いつもは女神の王冠のところまで階段で
登ることができるのに、
あの9.11の事件のせいで
階段は閉鎖されていた。 残念。
だが、女神像の周りの緑の芝生が気持ちいい。
みんな大の字に寝たりしていた・・。

その後、例の世界貿易センター跡に行く。
周りの崩れていたビル郡はかなり修復されていた。

それからチャイナタウンまで行き、昼食。
昼食後、隣接しているリトルイタリーに行き、
コーヒーを飲もうとしたのだが、
「昼食を食べないとコーヒーは出せない。」と
言われ、しぶしぶ店をでる。

しかたがないのでいよいよ自由行動タイムに。
若者たちにとってはこれまでの旅の中で最大の冒険になる。
二人ともセリフだけは実に強がって見せる。

U君は49丁目の紀伊国屋書店に行くため、
地下鉄の地図を持って、14丁目の駅で乗り換えていった・・。
ついに行ってしまったのだ・・・・。
しまるドア越しに、きょろきょろ乗り換え口を探しているのが
最後に見た姿だ・・・。

NYは田舎のニューオリンズの町とはちがう。
巨大な都市の中で、どんなドラマが彼を待ち受けているのだろうか。

残り3人は4時に一度ホテルに戻り、
先ほどS田氏がMOMAに出かけていった。

O君は映画ホームアローン2で有名になった
「プラザホテル」まで今から一人で出かける。
一応、地図の読み方を教え、地図を持たせてから行かせる。
若干17歳、一人でマンハッタンを歩く!!!なのだ。
この後送る画像の処理をしていて、たった今出かけて行った。

と思ったら5秒後トイレをしに帰ってきた。
そして再度出かけていく。

また3秒後帰ってきた。
地図を忘れたということ・・・(汗)。

ホテルの部屋に再集合は2時間後の7時。
さてどんな話を聞けるだろうか・・。
無事に帰ってくるだろうか・・。

この旅最大の緊張の結果を
次号でお伝えします。

ライブ・フロム・ニューヨーク。

3/10 ニューヨーク4

七條@坊さん〜NY発です。

さて昨日の自由行動タイムですが、
全員集合時刻に遅れることなく
帰ってきた。
胸をなでおろす私・・・・。

17歳O君:徒歩でプラザホテル〜セントラルパーク
    〜タイムズスクエアなどめぐってきたと
    いうこと。映画に出てくる場面を追ってきた
    らしい。しかしセントラルパークでは
    6〜7人の黒人少年たちの一人からエアガンで
    撃たれる、しかし無視する形で大事には
    いたらなかったということらしい。
    歩きすぎてだろうか、左足の膝を痛めるが、
    H寿のクリームを塗ってマッサージを施す。
    すぐによくなった。「広い・・」と言っていた。

19歳U君:地下鉄を使い本屋や図書館などをまわっていた様子。
      昨日一緒にタイムズスクエアを歩いていたとき、
     大道芸を少し見たが、「感じるものがびんびんある。」
     と言っていた。ブレイクダンスやガラクタをたたいて
     リズムにする・・などの芸であった。
     一人歩きは途中心細くなったが、これではいけない、と
     勇気を、ガッツを搾り出した、と言っていた。

S田氏:MOMAに行く。帰ってきて第一声:ニコラスケイジと一緒に
    写真をとったで〜。蝋人形(プロ級の?)の館みたいな
    ところを回ってきたらしい。

歩いて2〜3分のマジソンスクエアガーデンの向かいの
スポーツレストランで4人揃った最後の食事をする。

そして朝・・・・・

今AM7:05分。S田氏は8時の飛行機でハワイへ飛ぶため、もう出発した。
私は彼がタクシーに乗るまで見送りに行く。
最後、堅い握手をする。
あまり言葉はいらない。

S田氏:38歳、妻子持ち。今回の旅の私にとってのメリットの一つは
旅の中でS田氏がどんな人間なのか知れることであった。
最初の直感どうり、熱い熱い人であった。
少年たちは彼からたくさんの影響を受けたことだろう。

私は少年たちに対し、苛立つことも少なくはなかった。
しかし、そういうときは決まって場の雰囲気を明るくしてくれていた。
私が言うより、彼が言うほうがいい場面では、何の打ち合わせをしなくても
彼が諭してくれたりしていた。
少年たちの学びにとっては、本当に彼の存在はラッキーだったと思う。

でも彼の「凄さ」は、2月の中旬に私が同行をお願いしたメールの彼の返信の中に
すべて盛り込まれていたように思う・・。

「旅を通して少年たちからエネルギーを受け、これからの自分の人生の糧にしてい
きたい。」

これを送信したら、ホテルについている朝食を3人で食べに行く。

U君はじつはコネチカット州の友人のところでしばらく過ごし、
帰国は4月になってからだ。実はその友人はいま旅行中で
20日に帰ってくるまで友人の寮で一人で生活する。
いよいよ本当に一人旅になってしまう。
2日前に巨大なポートオーソリティ(バスターミナル)で切符を買い、
発車ゲートも一緒に確認してある。
なんとかあとは一人でがんばってほしいが、彼のことだから
向こうでもすぐに新しい友人を見つけてしっかりやることだろう。

そしてO君と私は11:50JFK発のノースウエストで帰国する。
成田着は11日の午後4時ごろ、そのあとO君は東京発9時の
夜行バスで京都まで帰り、コンビニのアルバイトに戻る。
今回O君はコンピュータに大変興味関心を示したが、
家にパソコンがないため、インターネットカフェに通うなんて
言い出している。

U君の裏技で昨日の夜、フリーメールアドレスをゲットすることに成功。
(U君はコンピュータにかなり精通している。)
これで4人、世界のどこにいてもメールで連絡しあうことができる。
ほんとにインターネットはすごい!!!!

さて私にとってこの大陸横断の旅は何であったのか・・・。
実は旅の前に一冊のノートを用意していた。
旅の自由帳だ。
ページを開くと各自のその時の想いが詰まっている。

帰途、それを見ながら、自分の心の正直な部分に問い合わせて
まとめを最後、東京からライブメールすることにする。

今、O君が起きてシャワーを浴びようとしている。
私も準備しなくては・・・。
部屋の小さな窓からマンハッタンのビル群が見える。
今日もいい天気だ。

ニューヨーク32番街、スタンフォードホテルから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【旅先で耳にしたギャングな英語 vol.15】             Mar.2009 BE☆SEE 15号 

Can you do this?

text= Tadashi Shichijo

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アメリカの大学ではアメリカならではの授業をけっこう取った。

そのうちの一つが「スピーチ」のクラスだった。

自分の趣味か何かをプレゼンテーションする時があり、私は空手着を着て

「型」を披露しながら、日本の文化である空手を紹介した。

すると私の後に、同じく空手着(正確にはテコンドー)を着た背の高いアメリカ人が

蹴りと突きのパフォーマンスをしたのである。。

その授業が終わって、その彼が声をかけてきた。

「俺、テコンドーの道場をやってるから遊びに来いよ。無料でいいから。」

 

程なく彼の道場を訪ねた。

彼は「道場長」だった。

白人・黒人・子供から大人までいろんな人がいた。

最初に友達になったのは白帯の白人の男の子。

柔軟体操のとき、「Can you do this ? 」(これ、できる?)と言ってくる。

何なのかな?と思ったら足を広げて胸を床につけようとしているのだ。

不思議なことにアメリカのその道場では、

体がどれだけやわらかいか・・がとても重要視されていて、

体が柔らかい人から順番に偉そうにしているのだった。

学生時代ずっと空手をしていた私は顎くらいまでは床につけることができたが、

それ以上彼と張り合おうとはしなかった。

翌週、また道場に行ったとき、白人の坊やを探したが彼は来ていなかった。

そしてその日は黄色帯の黒人の兄ちゃんと友達になった。

翌週、道場に行ってみるとその黒人の兄ちゃんの姿がない。

そして白人のおばちゃんと仲良くなる。

翌週、道場にいくと、なんとそのおばちゃんがいなくなっている。

 

実に不思議なことだが、この話はこの3人だけではなく、このあとしばらく続くのである。

私と言葉を交わして仲良くなった人が、次々と道場から姿を消していったのであった。

これは決して偶然ではない・・と直感。

考えられることはひとつ。

道場の2番手の奴が、実はとても偉そうにしている奴で、私には全く口をきかなかった。

私に対する敵意は感じてなかったが、ずっと「トップが連れてきたらしいけど、お前だれ?」みたいな態度をしていた。

おそらく彼が、私と話した人間にプレッシャーをかけて道場にしばらく来ないように仕向けたか、

または辞めさせたか、と思うのである。

 

場所はアメリカの深南部の保守的な田舎町。

よく考えて、ヨソ者扱い。

悪く考えれば、東洋人に対する人種差別・・・?

 

「全く受け入れてもらえない」・・そんな感覚を受けたテコンドー道場だった。

もちろん気持ち悪かったので、程なく私はその道場に通うのをやめた。

私を誘ってくれたトップの白人は人間的にも技術的にも立派な奴だったけど

2番手、3番手あたりの奴らは「権力」を我が物にしようとしているのが

アリアリとわかってしまった。 

何事も「閉じて」いると腐っていき、「開いて」いると

進化・成長していくものだな〜としみじみと思ったものです。

 

実は当時、私は遊びでバスケットボールをしていたとき、足首を捻挫してずっと痛みが残っていた。

(アメリカには湿布というものが存在してなかった!氷で冷やすだけなんですよ〜・・汗)

空手ができる状態ではなく、基本の突き蹴りだけやって、あとは隅の方で初心者と

練習していたのだ。

足が万全の状態で、偉そうにしていた2番手・3番手あたりの奴らと勝負してみたかった・・。

留学時代に心残りだったことのひとつである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【旅先で耳にしたギャングな英語 vol.16】             Jun.2009 BE☆SEE 16号 

I hate dogs.

text= Tadashi Shichijo

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アメリカ深南部で当時学費が全米一安い大学に入学した私は

いわゆる「南部なまり」の洗礼を受ける。

イングリッシュ090クラスの黒人のクラスメートがテキストの文を音読した。

テキストの文の中にあった今でも覚えているフレーズは I hate dogs.

本来なら アイ ヘイト ドッグズ [カタカナ表記]  と発音するところ

彼は

「アー へー ドー」と発音したのだった。

へ〜 こんなふうに奴ら(南部人)は発音するんだ・・と唖然としたもの。

 

日本では1回でよい「はしか」の予防注射を

アメリカでは2回しなくてはいけない・・ということで

大学に到着した翌日に右も左もわからないまま病院に行けと言われ

町に3台しかないタクシーのうちの1台で病院に行く。

私の3倍くらい大きい黒人の看護婦さんが

「ワチュナア?」

と聞く。

?????? と思考停止に陥っていると・・

「ハッハッハッハッハ」と高笑いをして

ブスっと注射針を私の腕に刺したのであった。

今から思うとそれは

「ワット イズ ユア ネイム?」だったのだが

それはさておき名前を聞かずとも患者に注射をする病院ってすごい・・

と思ったものである。

 

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【解説】 I hate dogs. 犬が大嫌い。

 

hate という単語は、毛虫とかを「いやあああああーん、けむしー!」というように

超毛嫌いするようなときに使う単語で、ふつう人間を相手に使うと

友情断絶レベルの強い意味になります。人種レベルで使用すると人種差別主義者

だと思われてしまいます。「私は犬がキライだ」を表現するときは

I don' t like dogs. と素直に言いましょう。 

ちなみにアメリカ時代の彼女と大喧嘩したときに

私は I hate you!!  を連呼されたことがあります。(−−;)

 

生活の中、特に人間関係で「合う」「合わない」で苦しんでいる人は多いようです。

人間って自分の感覚や感性の基準を宇宙の真理であるかのごとく

他人にも当てはめようとしますからね〜。困ったものです。

「合わない」=「嫌い」ではなく、「合わない」部分を一歩踏み込んで理解しあえる

ようになるといいなあ・・と最近よく思います。「合わない」が「嫌い」になり、

「hate」になると、とんでもないことになりますからね。

もちろんこれは最も自分に言い聞かせないといけないことですが。。。。

 

PS

Hi, RTVB. I read your message.If you read this, mail me to 7uminchu@gmail.com ( Tadashi )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【旅先で耳にしたギャングな英語 vol.17】             July 2009 BE☆SEE 17号 

The Middle Passage

text= Tadashi Shichijo

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地球に意識を向けるためには

やはり地球を地球規模で歩いて

その大きさを体感しなくては意識できないのではないか?

そういう意味で「地球の歩き方」というガイドブックの

ネーミングはなかなかイカしていると思う。

私も地球を結構歩いてきたが、

地球に意識を向けるために歩いてきたわけではない。

 

私には地球の中で「気になる場所」があった。

そこに行って、なぜ気になるのか確かめたかったのだ。

そこがまた、いわゆる地球の裏側に当たる場所で

行くのに非常に苦労する。

 

旅がなぜ貴重なのかって

お金と

時間と

健康と

行こうというドライブのかかった気持ちと

エア・チケットの確保と

旅先の国の安定と

(若かったときは)親の賛成という

7つのポイントが重合したときのみ

旅は可能になるからだ。

 

私がずーっと気になっていたのが

「黒人奴隷航路(=The Middle Passage)」といわれる場所だ。

陸地でいうと西アフリカからカリブ・ブラジル・アメリカ南部にかけてのあたり。

好きな音楽も アフリカンドラム・ゴスペル・ジャズ・R&B・カリプソ・サンバ・ボサノバ etc。

気になる場所の音楽までもが偶然にも私に心地よいのはなぜか?

これが偶然であるはずがないという確信がある。

 

不思議な力がある人に見てもらったことがある。

「2つ前の人生では黒人奴隷だった。」

「今の人生では魂はアメリカ大陸に生まれたがっていたが、

守護霊さんに引っ張られて日本に来た。」

なにげにとても納得。。

 

そして、西アフリカにも、カリブにも、ブラジルにも、アメリカ南部にも旅をした。

現地の波動を感じてみてどうだったか?

マザーやゲバラのように

現地に留まって何かやらなくては・・という気持ちには全くならなかった。

問題は山積だが、根源をなんとかしないとダメだと感じた。

そして日本が恋しくて仕方がなかった。

恋しいということもあったが、日本をほおっておけないという感じだった。

地球にとって日本が重要なポイントにあることがわかってきた今、

益々日本を離れられなくなった。

 

教師時代に

勉強が苦手で先生たちから差別視されている生徒たちと

アメリカ白人社会で差別されてきた黒人たちが

同じマイノリティとして重なって見えた。

 

差別を生み出している既存社会のフレームみたいなものを

ぶち壊しに生まれてきたような気がずーっとしている。

だからと言って私の武器は政治力でも経済力でもない。

私の最も有効な武器のひとつが「リズム」。

これをできうる限りのツールに落とし込んで武器とするのだ。

 

ある師匠に数年前に言われた言葉が

心から離れない。

「元気印を世に送り出す。」

 

これはきっと

「自分の使命に目覚めた人を世界に送り出す。」

ということなのだと思っている。

 

解説・・「リズム」  英語を読むときはリズムが大切。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【旅先で耳にしたギャングな英語 vol.18】             August 2009 BE☆SEE 18号 

Carnaval

text= Tadashi Shichijo

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20代の頃、「あそこまで熱い国はない」 とある人から聞いた台詞が忘れられず

一生のうち必ず一度は行こうと心に決めていた。

ところが当時は地球はまだ現在よりもう少し大きく

地球の裏側の情報は十分得られなかった。

カーニバルを見るには、ブラジル専門旅行会社の

バカ高いツアーに参加するくらいしか方法が見つからなかった。

30代になって旅にでるタイミングが見つかった。

インターネットは発達していたが、まだ日本人が個人で旅をして

リオのカーニバルを見た・・という日本語のストーリーはネット上の

どこにもなかった。(まだブログと呼ばれるものやmixiもなかった)

 

旅行会社の知り合いに頼み込んでホテルを取ってもらった。

ふつう、リオのホテルはカーニバル半年前からすでに

予約でいっぱいになるというのが常識。

そして「カーニバル・パック」というカーニバルの2日間を含んだ前後4泊が

パッケージになっている宿泊プランでしか宿泊できない。

リオのセントロからタクシーで1時間の新興地域のまだ知名度の低いホテルが

運良く取れた。

 

航空券確保完了。

宿泊地確保完了。

カーニバルを挟んだ5日間、リオデジャネイロに滞在する。

ホテルは取れなかったら現地で安宿を探すつもりだった。

兎に角、一か八か現地に飛び込んでみる。

そこで最新情報を得て、空気を読みながら動いてみる。

これが私の旅のスタイルで、このスタイルにはまると

予期した以上の結果がいつも返ってくる。

言葉の通じないブラジルでもそれは例外ではなかった。

 

世界のどんなところにも人がいる。

皆、同じように悩み苦しみ笑いながら暮らしている。

出会いの数だけ人生は豊かになる。

人との出会いに感謝。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【旅先で耳にしたギャングな英語 vol.19】             August 2009 BE☆SEE 19号 

SHIT!

text= Tadashi Shichijo

-------------------

アメリカ中を網羅する長距離バスは「グレイハウンド」と言う。

留学先の大学があるのはアラバマ州の小さな町。

よしっ!どうせならロサンゼルスから大陸横断バスに乗って

アメリカの町を旅しながら行こうじゃないか!とひらめいた。

ロスからアトランタまでまる3昼夜。

バスの中ではいろんな事件が起こる。

 

あるとき、ちいさな子供がなんと「うんち」を漏らしてしまった。

異臭が車内に充満する。

ママは必死で処置をして、他の客に謝っている。

しかしこの臭いはとうてい我慢できるものではない。

私は席が少し離れていたのでそんなに臭くはなかったが

近くにいる客たちが騒ぎはじめた。

なんとかしろ!と客が文句を言い始める。

 

収拾がつかなくなってきたところで、ドライバーがバスを

フリーウェイのど真ん中で停めた。

そして客の方に向かってこう言った。

「臭いのは仕方ないだろ。

我慢するか、ここで降りて6時間後にやってくる次のバスを待つか

どちらかにしろ!」

映画のようにビシッと台詞がキマッて、場が収まった。

途方に暮れていたママの顔に安堵の表情。

ママが子供に向かって言う。

「もう、あんた、ちゃんとここに座って(sit) なさいよ!」

すると他の客が

「もう一度うんちしろ(shit) なんてお願いだから言わないでね」

と言ったので、バス中が大爆笑。

 

さあ、読者の皆さんは笑えたかな?

 

 

解説 「 SHIT!」

動詞では「うんちをする」、名詞では「うんち・糞」という意味である。

バスの中の話は「座る」 sit (スィット) と 「うんちをする」 shit(シット)の

発音がよく似ていることにひっかけてのジョークだったのである。

また、日本語で悔しさを顕す「くそっ!」という悪い意味でも非常によく使われている。

日本語の「くそっ!」が「糞」から来ているのと同じ流れというところが面白い。

私もアメリカ留学時代の後半よくこの言葉を使ってガールフレンドに叱られました・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【旅先で耳にしたギャングな英語 vol.20】             Oct. 2009 BE☆SEE 20号 

I'm beating you!

text= Tadashi Shichijo

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I'm beating you.(悪いけど俺、勝っちゃうよ)

秋といえば「スポーツの秋」。
元々スポーツ好きだった私はアメリカ留学時代にも様々なスポーツにチャレンジした。
その中でも最も強烈な体験が「黒人アスリート」との対決だった。

対決と言えば格好良いが、黒人たちの身体能力は全く異次元であり、それを同じ土俵の上で
体感できたこと自体が私にしてみれば貴重な体験だった。

あるとき国別サッカー大会をやろうという話になって、私は日本人チームの一員になった。
日本選抜・韓国選抜・ヨーロッパ選抜・アラビア選抜の4チームによる総当りだ。
中学の時にサッカー静岡代表だった人がメンバーに入っていて、「これはもらった!」と
思っていたらヨーロッパ選抜チームにはフランスの皇帝「ミッシェル・プラティニ」と
プレイしたことがあるよ、って奴がいて超たまげたことを覚えている。

そのヨーロッパチームには一人アフリカ人が入っていたが、
彼のプレーは一言で言えば「ジェット機」のようだった。

私のはるか上空をマッハのスピードでドリブルをしていくのだから。。。

また体育の授業ではバスケットボールを取った。
ドタバタ走るバスケしか知らなかった私は、マンツーマン・スタイルに
全くついていけず、なんと最初の1ヶ月は試合の中で
ボールを触ることすらできなかった。私の位置取りが悪く味方も私に
ボールを回さなかったのだ。2ヶ月目に入ってようやくボールが回ってきて
一度だけディフェンスをフェイントでかわしてレイアップを決めることができた。

この授業でも黒人たちが数人いたのだが、彼らのプレーは全くずば抜けていた。
白人たちでも私の10倍くらい上手かったが、黒人たちはその白人たちの100倍は
上手かった。

3人に囲まれても笑いながらドリブルで交してすり抜けていく奴とか、
フリースローラインとハーフラインの間からスポスポと3ポイントを
決める奴とか・・。あと180cmの身長がある奴は皆ダンクシュートが
でるとか。。

しかし例外もある。

1学期だけ私の寮のルームメイトだったナイジェリア出身のクリフは
5歳年上の兄貴的存在だったが、彼はどれだけ誘ってもサッカーやバスケットはしなかった。

彼は高校時代、卓球をしていて、「テニスならしてもいい」・・ということで
時々一緒にテニスをした。なぜかきついスライスばかり打ってきてとても
やりにくかったが、自分が優位に立つと決まって
「I'm beating you!」(悪いけど俺、勝っちゃうよ〜)とのたまっていた。


アメリカ生活の中でわかったことのひとつは、

「全ての黒人がサッカーやバスケットに卓越している(つまり運動フェチ)訳ではない」

ということだ。これは日本人が抱いている妄想のひとつだと思った。

「不得意なことや興味のないことは徹底してやらない」みたいな
考えた方が当たり前になっている。

幕の内弁当的になんでも平均的にできることがよしとされてきた日本の教育に対して
フルコース的に「好きなことを徹底的に伸ばす」という考え方が
アメリカ教育の柱のひとつなのですね。

【結論】

バスケットボールをやっている黒人はバスケットボールがあり得ないくらい上手い。
しかし全ての黒人がバスケットボールを好きな訳ではない。

解説 I'm beating you. 私は君を負かしつつある。=俺、君に勝っちゃうよ〜。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【旅先で耳にしたギャングな英語 vol.21】           Nov. 2009 BE☆SEE 21号 

Looking for the caves

text= Tadashi Shichijo

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その冬の宿はハーレムのドミトリーに滞在。
ブルーノートがあるグリニッジビレッジまではもちろんブルーのAトレイン。

「In the night」という大ヒット曲を出したシェリル・リンの ライブ。

バスケットコートを横目にしばらく行って角を曲がると
大きなブルーの旗が見えてくる。

入り口でチケットをもがれ通された席はカウンター。
ビールを注文して今か今かと彼女の出番を待つ。

なかなか現れないので隣に座っていた金髪グラサンの兄ちゃんと少し世間話。
どんな人がブルーノートに音楽を聴きに来るのかな?と思っていたが 彼はなんと地元の出身。

地元の人が地元のジャズバーに歌を聴きに来る。
観光客ばかりじゃないんだ・・とかなり感動。

チケットも日本のブルーノートより遥かに安い。

一般市民と一流の音楽家の距離が近いと感じる一瞬だ。

若かりし頃、私にはNY移住計画なるものがあった。
まだネット環境が不十分で海外の情報を得るのが難しかった時代だったので
地元の人からの情報はとても有益。彼にNY住宅事情を聞いてみた。

兎に角マンハッタン内に住む為には高いということだ。
どんなに安くてボロいところでも当時1ヶ月800ドルはすると言っていた。
あとニューヨーカーは引越しがとても好きらしい。

They are always looking for the caves.
(彼らはいつもいい物件を探しているんだ)

この文を聞いて、ニューヨークの安い部屋の狭さが分かる気がした。
というか、その時私が泊まっていたハーレムのドミトリーは
ハ ーレムの普通の住宅を改造して作ったもの。
そこからイメージできるのは8畳一間でバス・キッチン・リビングが共同・・
ってことで1ヶ月8万はやっぱりキツイ。

2〜3日たって、公園のベンチで世間話をした男性とまたNY住宅事情の話になった。

I hear you New Yorkers are always looking for the caves.
(君たちニューヨーカーはいつもCavesを探してるっと聞いたんだけど)

って言ったらバカ受けして大笑いしていた。


【解説】

Cave [ keiv ] (名)ほら穴

ニューヨーク・マンハッタンの部屋は
ほら穴のように狭い・・と皮肉を込めて使われているようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【旅先で耳にしたギャングな英語 vol.22】           Dec.. 2009 BE☆SEE 22号 

I'm homesick

text= Tadashi Shichijo

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アメリカ留学時代、インターナショナルドミトリー(国際留学生寮)に住み始めた頃
やはり仲良くなるのは近くの部屋の同じ日本人留学生たちだった。

東京から来たエイジ、熊本出身のシュウジロウ、そして沖縄宮古島出身のタカヤと
私の4人は特に一緒にいるようになった。

4人とも初めての海外、初めてのアメリカという共通項がお互いの繋がりを
強くしていたのだと思う。

新学期が始まって2週間ほどたったある金曜の夜、我々4人はシュウジロウの
部屋に集まって話をしていた。どんな話をしていたか全く覚えていないのだが
とにかく話が盛り上がって時計の針は午前3時を指していたと思う。
突然誰かが「今からアトランタへ行こう!」と言い出した。

大学があったのはアラバマ州の人口5万人の小さな田舎町。
アトランタは州を越えて車で3時間。ジョージア州の州都でアメリカ南部最大の都市であり
我々の町から一番近い大都市でもあった。

真夜中に車に乗り込む4人。ワクワク感がたまらない。BGMはもちろんサザンオールスターズ。
未知の街へと真っ暗闇のハイウェイをぶっ飛ばしていた時の高揚感は今でも忘れることができない。

夜が明けた頃にアトランタの高層ビル群が見え始めた。
街に近づくと片側6車線のフリーウェイ。走っている車はほとんどいない。
ついにアトランタに到着・・・したのはよいが、一体そこで何をしたのか実は今ほとんど思い出せない。
唯一覚えているのは午後になって地元の町にはなかった「日本食レストラン」に行ったことだ。
名前は確か「NAKATO」だったような気がする。

なぜかアメリカの日本食レストランはとても高級そうな門構え。
きっと高いんだろうな〜とかなりビビリながら4人は中に入る。

中も高級感たっぷり。しかしウェイトレスは着物を着た日本人。
彼女はアトランタの大学で勉強しているいわば留学生の先輩だった。
我々は「すき焼き」を注文した。

肉はたっぷり。今は日本でも当たり前だが時代は90年代前半、
タマゴもご飯もお代わりし放題で20ドルというリーズナブルな値段は
とってもありがたかった。

ガツガツ食べる我々を見ながらそのウェイトレスは
「これからのアメリカ生活頑張ってくださいね。」と一言。

無意識のうちにホームシックに陥っていた私はその言葉を聞いた時
久しぶりに味わった日本の味とあいまって涙が出そうになった。

話は変わってなぜか入寮当時から仲のよかったタイからの留学生とも私はよく一緒にいた。
名前はウタイとドムという二人だが、彼らは時々「タイ料理手作りディナー」に招待してくれた。
食べながらウタイが「I'm homesick now.」とボソッと言ったことを忘れることはできない。
故郷の味は人をホームシックにさせるのかな・・。ホームシックなのは自分だけじゃないんだな・・と思った。
でも堂々と「俺はホームシックだ」と言えるのがスゴイとも思った。。

同室のナイジェリア出身のクリフは大学のカフェテリアの食事を食べ過ぎて
太ってきていて困っていると私に言った。フライドチキンが出たときは
私に「油の皮ははがして、中のチキンの身だけを食べろ」といつも言っていた。
私はそれを守らなかったので1年の留学中に10キロも太ってしまった。

後にクリフは同じナイジェリア出身の彼女ができ、彼女がナイジェリアの
郷土料理を作り始めてから急激に体重が元に戻っていった。
日本のご飯にあたるナイジェリアの主食は「フーフー(FuFu)」と言った。
一度食べさせてもらったが、ほんのり甘く伸びないけど餅のような食感のもの
だった。クリフも「フーフー」を食べてホームシックになったのだろうなと思った。

 

【解説】

 I'm homesick.

故郷の国を離れてのアメリカでの生活はかなり寂しい。ほとんどの留学生が
最初にはホームシックになると言ってもいいのではないかと思うくらい寂しい。
国際的な恋愛に落ちる者も多かったが、ほとんどが「寂しさ故の愛」と言っても
過言ではないという実感があった。