ムクムクコラム 2009
【ムクムクコラム vol.11】

☆一番星☆

text= TOMOKO OKAMOTO
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めでたさも 中位なり おらが春
             一茶

新年あけましておめでとうございます。
世界恐慌といわれる年がスタートしました。
日本においては1970〜80年代、戦後の復興、高度成長を経て「一億総中流社会」
といわれる状況をつくり、そして今、格差社会といわれる状況になっています。

冒頭の一句、小林一茶の生きた時代、そして彼の不遇の境涯の中、この句に込められた思いを推し量ることはさておき、「中位」という響きの受け取りかたはひとさまざまだと思います。                           

中位、ほどほど、右へ倣え、出る釘は打たれる・・・
日本に根強く残っている意識のひとつです。

一方競争社会、一番、下克上、出過ぎる釘は打たれない・・・
対極には、落ちこぼれ、負け組などをつくり出します。

どちらの場合も他者との比較対照、これではまわりを意識することに
エネルギーを摂られ、肝心の自分自身のできること、やるべきことに
使うエネルギーが枯渇してしまいます。

他と比べることなく、自らの足で立ち、
一番をいつも自分の中に持ち、
「きょうの自分が自分の一番!」で生きたいものです。

ひとりひとりが一番星☆
沢山の一番星が輝やく年になりますように。

Jan.2009

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ムクムクコラム vol.12】

飛梅

text= TOMOKO OKAMOTO

 

東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花

あるじなしとて 春な忘れそ

              菅原道真


梅香る候、受験シーズンでもあり、学問の神様菅原道真公を祀る各地の天満宮(天神様)を訪れる人も多いことと思う。

冒頭の歌は、太宰府に左遷される道真が都を離れる日、幼い頃より親しみこよなく愛でていた梅の木に詠いかけたとされる歌である。

そして、あるじを慕った梅が一夜のうちに太宰府の道真の元へ飛んで来た、というのが

太宰府天満宮本殿脇にある梅の木にまつわる「飛梅伝説」だ。


伝説ゆえ、梅があるじを慕って京都から現在の福岡太宰府に飛んできたかどうか真偽のほどは別として、

道真という「人」と梅の「木」の話ではあるが、そこに相互の信頼と思慕の物語をみることができよう。

「私が居なくなっても春には忘れず花を咲かせ、変わらずに人を楽しませ愛されよ」という梅に対する愛情。

同時に「私を忘れないでくれよ」という都への惜別の思いを梅に語りかけるなどこもごもの心情。

それを察した梅が、矢も立てもたまらなく飛んでいくという行為。

一朝一夕には出来上がらない相互の結びつき、関係は、梅が太宰府まで飛ぶという結果を運んだことになる。


では、「思いは叶う」というような成功哲学などが流布して中、「人と人」、「人とものごと」のいずれをとっても、果たして「思い」が強くさえあれば「叶う」のだろうか?

もしどんなに思っても叶わないと嘆くなら、思いの「強さ」、「連続性」、「持続性」だけでなく、その「関係」「内容」を今一度振り返ることが肝要であろう。


さて、あなたのその「思い」。

どこから起きているのか?!

自分の勝手、都合だけではどんなに強い「思い」でも届かないことを重々心得ておこう。


春立つ頃梅の香を愛でながら、自分は人や物事とどんな関係をつくっているのか。

あらためて省みたいものである。


日本無垢研究所

所長 岡本朝子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ムクムクコラム vol.13】

いざ さらば

text= TOMOKO OKAMOTO
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仰げば尊し 我が師の恩

教えの庭にも はや幾年

思えばいと疾し この年月

今こそ別れめ いざさらば


卒業、移動、別れの季節である。

多くの学校の卒業式で、「仰げば尊し」が歌われなくなって久しいそうだが、

我が師とは、学校の先生に限らず、親、先輩、友人、

歴史上の人物や本、物にいたるまで、多々あろう。


「死なれて知る親の恩」に代表されるように、

別れてこそ、失ってこそ、時間が経ってこそ見えてくるものがある。

そしてそれこそが重要であったり影響を受けていることが多かったりするものだ。


「会うは別れのはじまり」というが、

「出会い」があるからこその「別れ」である。

「別れ」を恐れず、「会う」を大いに求め深めてゆきたいものである。


「今」は一瞬であり、常に止まらず移りゆく。

今の自分さえも、一瞬の後には過去の自分であるのだ。


人生は積み重ねのように思われるが、

別れの連続と捉えることもできよう。


「今こそ別れめ(今まさに別れようの意) いざさらば」

の意識が、一瞬一瞬を凝縮させ、

他者、自分自身、もの、出来事と真摯に対峙する生き方に繋がるのかもしれない。


今日の「いざさらば」が、明日の「こんにちは」を導くと信じて・・・

潔く、「いざ さらば!」


日本無垢研究所

所長 岡本朝子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ムクムクコラム vol.14】

花の散るらむ

text= TOMOKO OKAMOTO
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久方の光のどけき春の日に

しづ心なく花の散るらむ  紀友則


のどかな日であるのに、桜は落ちついた心もなくはらはらと散り急ぐ。

満開のみごとな咲くさまと、潔い散りざまの対照ゆえに、

ひとは散り際に思いを馳せるのだろう。


花の色は移りにけりないたづらに

我が身世にふるながめせし間に  小野小町


楊貴妃、クレオパトラと並ぶ三大美人のひとりと言われた小野小町は、

色あせてゆく桜と、絶世の美女といわれた自分の容姿の衰えを重ねる。


紀友則が、光り輝く春の日と散るさまを、

小野小町は、おそらく雨の中、時とともに色あせていくさまを、

同じ桜にみた両歌の対比は面白い。


いづれにしても、古来よりひとは花に自分の思いや姿を写す。


願わくば 花の下にて春死なん

その如月の望月のころ

西行はその歌のとおり、桜咲く旧暦二月満月の日に没したとあるが、

おおよそ凡人にとって、老いや死はなかなか願うとおりの形では迎えられないものである。

ならば、願いが叶うとか叶わないとかに頓着せず、思うにまかせて自分(時分)の花を

咲かせよう。


散る桜 残る桜も 散る桜


今年の桜、あなたは何を観、何を感じましたか?


日本無垢研究所

所長 岡本朝子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ムクムクコラム vol.15】

様変わり

text= TOMOKO OKAMOTO
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満開の桜、花吹雪に見入った時も束の間、
ひと月で青葉繁る桜並木に様変わりである。
もはや、日光を避ける木陰としての役割を求めるぐらい、
樹を仰ぎ、枝先に心奪われて足を止める人はほとんどない。

しかし、1本の樹は同じ樹。
様が変わっているだけで、そのものは同一である。

人もまた、一生を様々に変化(へんげ)しながら、かつ、一個人を貫く。
変わりゆく様と、変わらない本質(本然)。

ひとつのなかに変わるものと変わらないものが共存する。
自分は今何を、どこを、見ているのか?
一面だけを見て判断し、大切なものを見損なわないように。
本来の姿を尊び、
千変万化の様を愉しむ。
そんな風に人や物を見続け、関わっていたいと思うのです。


日本無垢研究所
所長 岡本朝子

 

【ムクムクコラム vol.16】

水に流す

text= TOMOKO OKAMOTO
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入梅、雨の多い季節となりました。


雨過青山緑

雨過ぎて 青山緑なり

 (平林僧堂師家 野々村玄龍)


雨が通り過ぎた後、木々の緑がいっそう際だち、

山全体が清々しく美しく見える様になぞらえて、

大雨が煩悩妄想の塵を洗い流し、

本来の心が蘇った人間の清々しい心境を詠んだものです。


日本には「水に流す」という言葉があります。

すべてを無かったことにする、

また、都合の悪いことは忘れるというような悪い意味で使われることもありますが、

本来は穢れ、煩悩などを洗い清める意味だったのではないでしょうか。


水に流すとは、諍い、わだかまりを払拭して

本来の姿を取り戻すことです。

それは現況を乗り越え、前進する力にもなるはずです。


せっかくの雨の日には、自分や相手の何かをちょっと水に流してみませんか。

陽が差したとき、きっと清澄な景色がみえてくることでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ムクムクコラム vol.17】

川を渡る

text= TOMOKO OKAMOTO
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川を渡る


織姫、彦星が天の川を渡り、年に一度の逢瀬がかなう七夕伝説。


人と人とが繋がる、あるいは夢や希望を叶える、

そんな時、とかく目の前には「川」が立ちはだかっています。


橋を架けるか、船をこぎ出すか、泳ぎ渡るか、

どんな方法でも渡りきることでしか対岸にたどり着くことはできません。


あなたは川に向かって一歩を踏み出しますか?

それとも流れや川幅、水嵩を測って躊躇いますか?


一歩動き出す。

それはもう出会いの兆しかもしれません。


新しい自分、新しい関係、新しい世界、

すべては川を渡る、自らのその行動から始まります。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ムクムクコラム vol.18】

蝉しぐれ

text= TOMOKO OKAMOTO
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蝉しぐれ


都会の喧噪も制するかのような蝉しぐれ。


長い土中から日の目を見た歓びの歌か、

あるいは残り少ない命の叫びか。

いずれにしても満身をふるわせての蝉の声には

圧倒的な迫力があります。


真っ直ぐな、満身を込めた声はきっと聴いた人の心に届くはず。


騒がしい、暑苦しい、うっとうしいと思われるかもしれない。

それでも怖がらず、

普段閉じこめているあなたの声を

思い切って時の雨として降らせてみませんか!


そこから新しい見方、味方、三方が生まれるかもしれません。


日本無垢研究所

所長 岡本朝子


 

 

 

【ムクムクコラム vol.19】

目にはさやかに見えねども

text= TOMOKO OKAMOTO
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目にはさやかに見えねども


秋来ぬと目にはさやかに見えねども

風の音にぞおどろかれぬる

              藤原敏行(古今集)


立秋を過ぎても残暑のさなかにまだまだ夏の気分でいると、

ふと感じた風の気配がもう秋であることにはっと気づくことがあります。


「気配」、それは五感で識別する以前に、私たちが察知しているものと思われます。

冒頭の歌でいう「風の音」とて、おそらく現実の聴覚で音として識別したものではないのかもしれません。


「ハッ!」とする。

「アッ!」と思う。

「ピッ!」とくる。

「エッ!」となる。

「ンッ?」と感じる。


それは、外の世界と既に自分の内にある何かが結びついた瞬間かもしれません。


誰でも必ずキャッチしている一瞬体の中を走る光のようなもの。

それは自分にしかわからない感覚。


他人と同じではありえないその感覚こそを自らの宝として、

衆目に囚われず、自分の「おどろかれぬる」を大切にしていきたいものです。



日本無垢研究所

所長 岡本朝子

 

 

 

 

 

 

 

【ムクムクコラム vol.20】

隣は何を・・

text= TOMOKO OKAMOTO
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秋深き 隣は何を する人ぞ

松尾芭蕉


秋風の吹く季節には、寂寥がつきもの。

ふと人恋しさがよぎったとき、隣の人は今何をし、何を思っているのだろうか?

そんな想像をちょっと掻き立ててみましょう。


隣の人は・・・

あなたの想像を絶する食べ物に舌鼓を打っているかも!?

あなたにはとうてい受け入れがたい音楽に陶酔しているかも!?

あなたが目を覆いたくなるような映像に釘付けになっているかも!?


「ウソ〜!」

「ヘーン!!」

「オカシイ!!!」


そう、好きな嫌いはひとりひとりの主観、正しいも間違いもありません。

「オカシイ」というあなたが「オカシイ」と言われることだってあるのです。

ならば、互いの「オカシイ」を、「可笑しい」へ変換して笑い楽しんでしまいませんか。


なんと言われようとも、固執し執着し偏愛し続ける。

自分のそんな大切なものを守り抜く。

だからこそ、自分と相容れなくてもひとの大切なものを尊重できる。


違うものを排除するのではなく、違うものを敬い共に合わせて膨らませていく。

深まる秋を、自分の「フェチ」を堪能しながら

ひとの「フェチ」と集め合わせて豊饒にしていきたいものです。

日本無垢研究所

所長 岡本朝子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ムクムクコラム vol.21】

クセモノ好き

text= TOMOKO OKAMOTO
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実りの秋、食欲の秋、夜長を美酒に酔いしれる至福の季節でもある。

ちなみに私にとって、三十路を過ぎてから嗜むようになったお酒は今では欠かせぬ人生の友である。

とりわけ匂いの強い芋焼酎の、更に匂いを引き立たせるお湯割りなどたまらない。


「臭いものに蓋をする」と言うと除去せずに蓋をしてやり過ごす、その場しのぎという

悪い意味で使われるが、実は無視したはずの蓋をしたものほど気になるもの。

臭いとは、すなわちその人の嗅覚に敏感に訴えているものでもある。

同様にクセのある人の「癖」もまた、その人固有の特性を醸し出すものだ。

「癖ある馬に能あり」という言葉もある。

一癖、二癖大いに結構。

臭もの、癖もの、曲もの、蓋を開け放ち堂々とクセモノたれ!


日本無垢研究所

所長 岡本朝子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ムクムクコラム vol.22】

冬枯れに思う

text= TOMOKO OKAMOTO
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冬枯れの木立、落ち葉の絨毯を歩きながら、

今年のNHK大河ドラマ『天地人』で、主人公直江兼続が母親から「もみじの如き家臣になれ」と言われそれを全うしたことを思う。

ドラマの中で母親は、真っ赤に色づくもみじの葉が美しいのは根本の土に還り樹を守る

養分となるためにその葉を落とすからと説き、我が子に主のために身を賭して散りゆく

もみじの葉の役目を果たすよう諭すのである。


一本の樹を例に挙げても根、幹、枝、葉、花などそれぞれその役目がある。

人間もまた、ひとりひとりに固有の役目があるとしたならば、淡々と黙々と進む

そのことに意味があると思う。

その日々の繰り返しができること自体が「幸」そのものだと思う。

今自分の中に、自分の足元に、自分の身近に「サチ」をサッチせず

算盤勘定の「サチ」を描いていたら、結果自身が疲弊してニッチモサッチモ行かなくなる、

なんてことにもなりかねない。

あなたはあなたの「幸」を感じていますか?


年末の締めに語呂合わせが決まったところで思わずフフ・・・

今年も『ムクムクコラム』にお付き合いいただきましてありがとうございました。


日本無垢研究所

所長 岡本朝子

 

 


                     


 

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2009