■【八田入覚の説法 vol.11】
入覚の仏教用語集! 「諸行無常」
text=Nyukako Hatta
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娑婆の世界を走っている皆様に・・・
世の中に、変わらないものはあるでしょうか?
形あるもの必ず壊れ、植物はいつか枯れてしまう。
人の気持ちもまた、刻々と変わって行きます。
生まれて来れば、必ず死んでゆくのです。
人は死ぬために生まれてきたという哲学者もいます。
川の流れも、生まれ育った町も、都会も、人々の生活も、
未来に向かって刻一刻とすべてが少しずつ動いているのです。
仏教ではこれを『諸行無常』と言います。
あらゆるものは常に変化し続けているもの、人の心が離れたと言っては泣き
歳を取ったと言ってはがっくりし、愛するものが死んだとき、嘆き悲しむ。
正に我々は無常の世の中に生きているのです。
最後に、このことをズバリ表現している「平家物語」の冒頭部分を載せておきます。
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらは(わ)す
おごれる人も久しからず
唯春の夜の夢のごとし
たけき者も遂にはほろびぬ
偏に風の前の塵に同じ
メンタルアドバイザー(調整師) 八田入覚
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■Heiz新価値度66(内訳:ナ度100・TQ度100・BQ度50・銀座度0・EGDE度80)
・当たり前のことが当たり前でなくなってきた日本社会や日本人の意識。なんでだろう?
■【八田入覚の説法 vol.12】
「死と生」
text=Nyukako Hatta
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皆様は「死」をどんな時に学びますか。
そして、「生」はどんな時に意識しますか。
人は他人の死を通して「死」を学ぶと言います。
例えば、TVなどの報道で殺人事件や事故、天災など
人の命が奪われてしまう事を、目にした時に「死」を感じたりするのではないでしょうか?
あるいは、身近な人が病気で「死」の宣告を受けたのを耳にしたりすると
「死」を感じたりするのでしょう。
法事の際、お坊さんから “命は儚いんだ、尊いものなんだ、いつ何時どうなるかが解からないのが人の命だ”と聞かされた時に人は「死」を意識するのではないでしょうか。
しかしそこには、「生」への意識は少ないでしょう。
では、どんな時に「生」を意識するのでしょう。
それは、自分の死を前にした時に初めて「生」への意識が芽生えるのではないでしょうか。
例えば『あなたの命は余命何ヶ月です』と、宣告された時などに・・・・・・
その時、貴方は必ず右往左往するでしょう。
そして、自分は何のために生きているのか、これから何をするべきか、
子供は、家族は、仕事は、・・・・・・・まともに意識するでは?
しかし、それでは遅いのです。
まさに今こそ「生」を意識して欲しいのです。
何故、自分は生きているのか、そして様々な命によって生かされていることを
あなた自身で意識して欲しいのです。
これから何をしたら良いのか、周りの人との接し方はこれで良いのか、
あらゆることを意識しながら「生」について考えてみてはどうでしょう。
これから先の貴方の人生を有意義なものにする為にも。
メンタルアドバイザー 八田入覚
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■Heiz新価値度70(内訳:カ度100・TQ度100・BQ度50・銀座度0・EGDE度100)
・今、「メキキの会」でも言われている「サムライ時間」というやつですね。しかしどうすればその境地に辿りつけるのだろうか。
■【八田入覚の説法 vol.13】
『いのち』の叫び
text=Nyukako Hatta
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我々が無駄に過ごした今日一日は…
昨日死んでいった人が痛切に生きたいと思った一日
日頃、どんな事を思い、何を大切にして生きているのか…
生まれたからこその、果たさねば成らぬ使命とは?
いのちはすべて生まれるべくして生まれるもの
誰一人として意味のないものなどあろうものか!
今日一日はどんな一日だったのだろう?
無駄な一日だったのか、嫌な一日だったのか、辛く悲しい一日だったのか?
どんな一日であれ、いのちが繋がっていることを感謝したい
この一日が無駄でも、死んだ人にとっては大きな意味を持つことは間違いない!
お釈迦様はおっしゃいました『人は必ず死ぬ だから たゆまず努めよ』と…
※たゆまずとは…続けることを嫌にならずに、の意味
いつかは死んでいく身であれば、諦めずに生きることもまた我々の努めであろう
生を意識できることに感謝したい
仏教アドバイザー 八田入覚
【八田入覚の説法 vol.14】
生死の苦海
text=Nyukako Hatta
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生老病死を避けて通ることのできない苦しみ。
生まれて来た瞬間からはじまる故の苦しみ。
しかし誰も恨むことはできない。
死に向かって進んでいることそのものの苦しみ。
元気に一生過ごせたらどれだけいいか・・・
しかし大概の人たちが病気に苦しみながら生きて行く。
もし仮に、健康に過ごしていたとしても、いつか必ず人は老いてしまう。
まだまだ若いと思っても、気が付けば・・・遅すぎた\(゜ロ\)(/ロ゜)/
最終的には嫌でも死を迎えてしまう。
この世の中で生きていくことそのものが苦しみ。
これを「生死の苦海」と呼ぶ。
梵語で「生死」は「サンサーラ」意味は流れゆくと言う。
まさに苦しみの海を彷徨っているようである。
つづく・・・
仏教心理アドバイザー
八田入覚
【八田入覚の説法 vol.15】
生死の苦海
“先回のつづき”
text=Nyukako Hatta
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精進は「生死の苦海」で生きていくことの辛さを実感しつつ、
それに囚われることなく、日々前向きに生きていく努力のことである。
しかし、何故に我々はここまでして苦海の世を捨てないのだろう?
親鸞聖人は『歎異抄』で「今だ、見たことも行った事もない浄土には何の興味もないことだが、これはよくよく考えてみると煩悩の仕業である」と、述べている。
このことから、生まれてこの日まで迷い苦しみ、この苦海を浮き草のように漂い続けるのは、我々が煩悩を持っている存在だからである。
つづく
【八田入覚の説法 vol.16】
生死の苦海 またまたつづき‘不断煩悩得涅槃’
text=Nyukako Hatta
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人の欲望というものには限りが無いもの。欲しいものを貪り、気に入らなければ怒り、惑う。これを煩悩の根源と言われる三毒としている。
※貪欲(欲しくてたまらない心)、瞋恚(思うようにいかない怒り)、愚痴(愚かしさ)
仏教には2つの道、難行道と易行道があり、三毒を断って、迷いのない境地を得ることを難行道(断煩悩得涅槃)。三毒を持ったまま、迷いの無い境地を得ることを易行道(不断煩悩得涅槃)という。
どちらもさとりを得る道。あなたなら、どちらを選ぶ?
・・・まだまだつづく・・・
【八田入覚の説法 vol.17】
生死の苦海 ‘不断煩悩得涅槃三毒’
text=Nyukako Hatta
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先回のつづき
“不断煩悩得涅槃”の涅槃に至る道筋は持ち合わせている煩悩をしっかり自覚するからことから始まるのです。
108つの煩悩があるといいますが、いくつ知っていますか?
自分の中にある煩悩に貴方は気が付いていますか?
今回は煩悩の中でも、もっとも身近にあるものを取り上げてみましょう。
その名も三毒(さんどく)。
三毒とは仏教において克服すべきものとされたもっとも根本的な3つの煩悩《貪欲(とんよく)“貪欲とは、すべての物を果てしなくむさぼり求める心”
瞋恚(しんに) “瞋恚とは、怒りの心で、ほしいものが手に入らないと相手に攻撃的になってしまう有様。子どもでは泣き叫んで駄々をこねる様子がこれに当たります”
愚癡(ぐち) “愚癡とは愚痴とも書きます。真理に対する無知の心。正に言葉の通りで、「どうせ俺なんか」「僕はここの家の子どもじゃ無いんだ」など、ぐちが出てします様子をあらわします”》
これは人間の諸悪・苦しみの根源でもあるのです。
これって本当に克服することができないの?
答えは無理でーす!
でも克服できなくても大丈夫V
この3つすべて持っていれば間違いなく貴方は人間です。安心して下さい!
『私の持っているのは「愚癡」だけで、怒らないし、欲も無い』とか、『私は「瞋恚」は無いし「愚癡」もない。あるのは「欲」だけ』と言う人も居ないのです。必ず3つ1セットで持っていて、ひとつとして欠けることは無いのです。この3つを持っている人を「凡夫(ぼんぶ)」と言い、我々人間のことを表します。
人はこの娑婆の世界に身を置く以上、この3つの煩悩を持ち続けることになります。でも克服できなくても心配はいりません。
欲しいと思う心、手に入らなかったことへの怒りの心、そしてそれでも駄目だと知った時に愚痴ってしまう。それが我が身であると「自覚」することが大切なのです。つまり「自分の資質を知る」です。
故に、自分はどんな性格でどんな時にどんな行動を起すのかを客観的に分析し、自分自身をコントロールすることこそが『自覚』なのです。
これにより“三毒”とのお付き合いが楽になるでしょう。
正に、『不断煩悩得涅槃』(煩悩を断ぜずして涅槃を得る)ですね。
仏教心理アドバイザー
八田入覚
【八田入覚の説法 vol.18】
お盆のひとこま
text=Nyukako Hatta
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今回は新潟の実家のお寺でお盆のお参りをしています(-人-)
8月7日から8月12日まで門徒(檀家)宅回りをしていました。
今日13日はお墓参りの日でした。
例年になく雨が降ったり止んだりと風も強く吹きお盆らしくない1日でした。
ある方に何故墓参りをするのかと尋ねられました。
答えは宗旨宗派によって違いますが、1つの答えとして…
亡くなられた人(じいちゃん、ばーちゃん、お父さん、お母さん)から我々の身体に命が受け継がれているからこそ、今ここにいることができる。そのことへの感謝の気持ちを表すときなのです。
普段何気なく、当たり前に思っているこの命、必ず誰かから受け継いでいることを忘れないでほしいと思います(-人-)
仏教心理アドバイザー
八田入覚
【八田入覚の説法 vol.19】
いつもひらめいて
text=Nyukako Hatta
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いつもひらめいて
ここだけの話(ここだけにはならないか?)、講演や講座、カウンセリングすべてこの『ひらめき』が大きく関わっています。
講演や講座は大きな骨組みだけあれば(無くても問題ありませんが…)OKです!かえって文章があると言いたい事も言えなくなってしまいます。
カウンセリングも同じで、持ち込まれた案件に対してどのようにすればよいか最初全く分からない時があったとしても、結果的には100%必ず道筋が見えて来るのです。
まるで神が降りてきたかのようにポンポンと頭の中に…これぞ『ひらめく』?!
だから「話す」と言うより「伝える」と言った方が正しいようにも感じます。
今改めて思いかえすと、ほとんど『ひらめき』で生きてきたところが大きいようで…(-人-)
仏教心理アドバイザー
八田入覚
【八田入覚の説法 vol.20】
宇宙(せかい)
text=Nyukako Hatta
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題名:宇宙(せかい)
地球の自転の速さがマッハ1.67、時速にすると1,670km。そして地球が太陽の周りをマッハ115(115,000km)と言うハイスピードで回転しています。
それでも太陽の周りを一周するのに1年かかるとは凄い!私が時速20kmで頑張って走っても5,750年もかかってしまう!
地球が周っている太陽も凄い!太陽は9つの惑星を引き連れて、2,000億以上の星でできた銀河系の中心の周りをマッハ920(920,000km)の速さで回転しているのです。
想像絶する速さだ!
2,000億の星を従えている銀河系の中心もまた、乙女座銀河団の重力に引っ張られて周りを回転しています。
秒速100kmだそうです。これは時速になおすと360,000kmなので太陽系に比べたら大したことないか?!ってそれでも十分速い!なんだか頭が麻痺しそう。
このように宇宙全体がお互いの力で引き合い、影響を及ぼし合って、猛烈なスピードの複雑な働きを永遠に膨張しながら続けているのです。
物理学者はそんな宇宙の運動を『終わりのない重力のバレエ』と言うことがあるそうです。
もしかして、創造主はそのバレエが鑑賞したくて、宇宙を作り上げたのかも…
仏教心理アドバイザー
八田入覚
【八田入覚の説法 vol.21】
ストレスの無い伝え方って何?
text=Nyukako Hatta
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題 「ストレスの無い伝え方って何?」
いくら言っても自分の話を理解してもらえない時ってありませんか?
いったい誰が悪いのか?
聞き手?はたまた、話す側?なのか。
みなさんはどちらだと思いますか?
私は話し手にあると思います。
十人十色というように100人に同じ話をしても100人が全員理解することは難しいですね。
おそらく100人中20人理解してもらえればいい方ではないでしょうか。
人に理解できるように話すということは、かなりレベルの高いことだと私は思うのです!
つまり、相手に理解してもらえないのは、今話そうとする内容を伝える能力が
現在まだ不足していることが原因であると・・・
だから問題なのは聞き手ではなく話し手の側にあると確信しました。
そうしたら、「言葉で伝える」という話すという行為が楽しくなったのです。理解してもらえないイライラもなくなりました。
故に、どんな場合でもどんな理由があろうとも、受け手に責任はないのです。
【八田入覚の説法 vol.22】
退屈(たいくつ)
text=Nyukako Hatta
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「退屈だ。こんな授業つまらん!」「退屈な仕事だ!」学校の教室や職場からこんな声を耳にすることは多々あるでしょう。
一般に使われている「退屈」は「何もすることがなく、いやになること」「物事にあきること」ですが、元々は「仏道修行の厳しさに屈し、修行から退いてしまう」ことを意味します。
仏道で生きる決意をした者が志半ばで挫折した為、その後はヒマでつまらない飽きあきした人生になった様子です。これは日本で独自に展開したものだそうです。
しかし現代では、人は刺激的な人生を歩むことに魅力を感じてしまう為か、「退屈」と感じるのは刺激的な情報が遮断された時のようです。
仏教では退屈の心は自ら起こすものとし、自分のするべきことが見失われてしまったとき、自らで起こす警告サインが『退屈』なのです。
退屈をヒマつぶしで解消するのではなく、退屈そのものが「見失っている自分の志を見つけようぜ!」と、自らの歩む方向を指し示しているのです。
刺激的な情報にばかり捕らわれず、『退屈』をもっと活用することをお薦め致します。
仏教心理アドバイザー 八田入覚
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