シリーズ「音職人の風景」 第1話〜第8話
【音職人の風景 第1話】 〜1967.5.1誕生→小学校前半〜

1967年5月1日、誕生。
生まれた時の記憶はない。
親から聞いた話だと、2,800g、ほんの一時間ほどで「スポッ」と生まれたらしい。(兄の時はそれなりに大変だったそうだけど)
家のことを何もしない父が、母が私を産むために入院してた時に卵焼きを作って兄に食べさせたらしい。
やるなぁ、父。。。
今みたいにコンビニ弁当もなければ、外食もあまりしない時代だ。

2才が近くなっても歩かなかったらしい。
親が関節や他の原因で歩けない子供なのかと心配して病院に連れていくと、
「どこもなんともありません。ご本人に歩く気がないだけです。そのうち歩きますよ。」
と言われ、恥をかいたと言っていた。
この頃から既に気分に左右される人間だったのだろうか?

3才まで長岡京市にいた。
その頃の記憶は・・・・
近所によく吠えるスピッツがいて、とても怖かったこと。
お化けの夢を見て、とても怖かったこと。
そのくらいだ。

4才になる年に、京都市内の祖父母の家に引っ越す。
父は次男だが、長男夫婦が祖父母と折り合いが悪く、ウチの家族が本家に入ることになった。
当時のことはサスガにあまり覚えていない。

5才になる年、幼稚園に通い始める。
どうしようもない泣き虫で、一日何回も泣いていた。
送迎バスに乗るのがイヤで、母に車で迎えに来てもらったことが何度もあった。
何故バスに乗るのがイヤだったのか、覚えてないけれど、その時その時何か理由があったということは覚えてる。
バスに乗るのがイヤだったのではなく、大泣きモードに入って動けなくなってたのだ。
「どうしたの?」と聞かれても、しゃくってるから話すことも出来ず、精神的に追いつめられると更に大泣き、手のつけられない子供だっただろう。
(その点は小学校を卒業するまでずっと、だったのだが・・・)

絵を描くのが好きで、絵ばかり描いていた。
大人の用事に連れて行かれても、紙とペンさえ渡しておけば何時間でもだまって絵を描いて遊んでる子供だった。
年長組の時、先生に絵を誉められた。
それまではただ好きで描いていたけど、その時初めてぼんやりと「私は絵が上手なんだ」と自覚した。

同居していた祖父が道楽者で、趣味でバイオリンを弾いたり、色んな楽器を持っていて、京都では大手の楽器店&音楽教室の十字屋の社長と友達だった。
その人の勧めと、親の方針で、近所のヤマハ音楽教室の幼児科に通うようになる。
家にはまだオルガンしかなかったけれど、幼児科の課題はオルガンで十分だった。
どんなレッスンだったか、楽しかったのかどうかも、ほとんど覚えていない。
ただ、このころから宿題を真面目にやる子ではなかった。
オルガンでは課題ではなく、自分の弾きたいものを弾いていた。

幼児科を卒業する頃、宿題でもなんでもないのに、自分で勝手に曲を作って持って行って先生に見てもらった。
今思えば、なんちゅー子供だ。。。
その時の曲は今でも覚えている。
一曲は「となり町の女の子」(今じゃ作れないような神秘的な曲!)、もう一曲は「買い物ブギ」(まるでブギウギではないけど、調子のいい曲)。
他にもあったかも知れないけど、この二曲を覚えてる。
タイトルは何を思ってつけたのか、我ながら見当もつかない。
なんでオリジナル曲を作ろうとしたのだろう???
当時の私は最もクリエイティブだったのかも知れない。

町内に「理恵ちゃん」という同じ年の女の子の友達がいて、基本的に毎日のように一緒に遊んだ。
ヤマハ音楽教室も一緒に通っていた。

それ以外の時間は、3つ上の兄の「金魚のフン」だった。


子供時代の遊び場だった近所のお寺「法然院」


【小学校就学〜】


地元の公立小学校に入学。
4年生の兄は近所の同級生と毎日通学していたので、理恵ちゃんと毎日通学。
理恵ちゃんと私は二人とも激しい性格で、毎日のように「絶交」と「仲直り」を繰り返していた。

「町別子供会」が学校であり、新入生は自己紹介をする。
自分の名前を尻切れトンボで言えず、泣きながら兄に抱きつくアカンタレぶり。。。
感情の動きをまるでコントロール出来ず、調子に乗ったり大泣きしたり、の繰り返しだった。

父親の仕事(囲碁棋士)を、うっすらと理解し始めた。
具体的にはよくわからないが、他の家のお父さんとは全然違う、ということはよくわかった。
ほとんど毎日家にいて、のんびりしているように見えた。
よく一緒に遊んでくれて、ドライブに連れて行ってもらったり・・・
夏休みはしょっちゅう父のゴルフの打ちっ放しにくっついて行って、ジュースを買ってもらって父の打ちっ放しを眺めてた。
口うるさい母と違って、父はおおらかな人だったので、父になついていた。

3つ上の兄の金魚のフンをやってただけあって、
なんでも早かった。
字を覚えるのも、九九も小学校1年ですっかりクリアしていた。
大好きな兄に追いつきたかった。

この時の気持ちが、その後「大好きな人に認めてもらいたい」の元になる。

兄は成績がよかった。
母はそのことをよく私に言ってプレッシャーをかけた。
(本人はプレッシャーのつもりじゃないと思うが)
兄にも追いつきたかったけれど、母に認められたかった。
なんでも後を追う立場の方が追われる立場より有利だ。
兄の後をくっついてた私は、その影響だけで十分に、学校の成績はとても良かった。

3年生から珠算教室に通った。
小学校卒業までやって初段まで、その教室では学年で一番優秀で得意だった。
そのお陰で計算が得意で、高校の数学まで楽をさせてもらった。
ずいぶん衰えたけど、今でも一般人よりは暗算が速いのは、珠算教室のお陰だ。

一方、ヤマハ音楽教室の幼児科を卒業後、試験を受けて、ヤマハの「ジュニア科専門コース」に入った。通常のジュニア科コースより専門的で英才教育的なコースで、京都では第一期生にあたる。
祖父の友人の十字屋の社長の勧めと、幼児科の先生の勧めで受けた。
その幼児科からは私だけがJ専科に進んだ。
人と比べる能がなかったのだけど、優秀だったのかも知れない。(多分そうだろう)

J専科に進んで、エレクトーンを買ってもらえた。
すっかり有頂天で、弾いて遊びまくった。
カセットテープに録音できるエレクトーンだったので、兄と二人でデタラメな番組を作ってよく録音して遊んだ。
兄がDJ気取りで喋ったり歌ったりする、後ろから私は茶々を入れたり、BGMや効果音楽を入れたり。。。
(あれ?今とやってること同じじゃん・・・!)

まるっきり遊びで録音したテープに二人とも深い想いなく親宛のメッセージみたいなのを入れてたことがあり、
父親が聞いて泣いていた、と後に母から聞いた。
意図してなかったのに、なんだか申し訳ない気がする。

小学校2年の夏、祖父が他界した。
胃ガンが肺に転移していて、入院してから家に帰ってこなかった。
まだ小さかったから、病院には一度しか連れて行ってもらえなかった。
一度だけ行った時はもう亡くなる少し前で、久々に会った祖父はもう、ずっと苦しんでいて私の方を見てくれなかった。
足の骨からふくらはぎに皮だけがブラブラしていた。
もともと細い人だったけれども、まるで別人だった。
漠然と「怖い」と思った。

お葬式の日、親戚中が集まった。
私がいとこ達(12人)の真ん中くらいで、一番上でも小学生、祖父の死を理解出来ない幼い子供達は、一室に集められて遊んでいた。
いとこが全員集合することはそうはないから、嬉しくてハイテンション。
悪気無く、「夏だから」という理由で、こともあろうに「お化け屋敷ごっこ」で大盛り上がり。
一人ずつ押入に隠れて、ドライヤーで温風を出したり、熱帯魚の青い灯りを使ったり、花火のちょうちんやハタキを使ったり、かなり凝っていた。
後にも先にもないくらい大はしゃぎして、大人達に大目玉を喰らう。
(兄ははしゃぎ過ぎて熱を出した)

なんとなーく・・・
うっすらとした記憶をたどると・・・
「お化け屋敷ごっこ」の言い出しっぺは、私・・・かも知れない。。。(^_^;)

【次は小学校後半へ。。。】


文/天宅しのぶ(あまやけ・しのぶ)
text= SHINOBU AMAYAKE


【音職人の風景 第2話】

〜小学校前編その2〜 

小学校3、4年の時、音楽の授業ジャックをしていた。
小学校の先生は全教科一人で見るけれど、音楽と体育はよく交換授業されていた。
3、4年の担任の先生は音楽は不得意だけど全部自分でやっていた。
それがあまりにもおぼつかなくて、伴奏を申し出て音楽の授業のピアノを弾くことになった。

ところが・・・

このお調子者がそうそう教科書通りのことをすんなりするわけがない。

「教科書の曲よりこっちの方が楽しいやん」と、聞き覚えの流行歌を勝手に弾いて、みんなでジュリーやピンクレディーの大合唱をする。
楽しい先生だったので私の授業ジャックに怒ることなく、一緒に歌ってくれてみんなで楽しんだ。
(モチロン授業は授業でやって、オマケ的に、です)
聞き覚えで弾く、ということの特殊性には全く自覚なし。

ヤマハのJ専科は、グループレッスンでついて行けないと思ったことがなかったけれど、練習を真面目にしないので個人レッスンの進みが悪かった。
このまま続けて行くにはピアノをちゃんと弾けないと、と言われ、エレクトーンからピアノに切り替える。
親がアップライトのピアノを買ってくれた。
エレクトーンからピアノの移行は鍵盤が重くて辛かったけど、なんとなく「本格的」な感じに興奮した。
やっぱり決められた練習はあまりせず、自分が弾きたいと思った曲ばかりを勝手に弾いていた。

小学校5年から、兄も行っていた進学塾「成基学園」に行く。
兄がそうしたように、当然のように「進学するのが普通だ」と思ってた。
兄と同じ、土日コース。(理恵ちゃんも一緒)
火木がヤマハで月水金が珠算教室、1週間全部詰まってる多忙小学生だった。
(でも家で自習、練習はしないので、ほとんど遊びに行ってる感覚)

塾で兄と同じ先生が担任になり、「お兄さんはよく出来たよ」と言われる。
理科の先生にも言われた。
母も同じことを言った。
一度もテストを受ける前から、「私の方が出来ない」と決めつけられてる気がした。
「同じだけ出来ないと認めてもらえない」と思った。
「超えればみんな認めてくれるんだ」と思った。
「ここで兄よりよかったら、母もみんなきっと誉めてくれる」と思った。
この幼稚な期待は裏切られることになるのだけど・・・

兄は中学受験に失敗した。
当時京都で一番の洛星中学を受験して落ちた。
成績的にはまぁまぁ合格圏内だったのだけど。
洛星は男子校なので、私はどうやっても行けない。
どんなに頑張っても、女子は教育大付属か同志社がアッパー。

その進学塾の成績、やはり追う者の特権で、私の方がよかった。
模擬テストでもよくランキングされて、男子だったら洛星も楽勝、灘中圏内にいた。

あんなに兄のことを私に言った人達、母も含めて誰も私を誉めてくれなかった。
幼稚な私は、行き詰まった。
どうしたら母が認めてくれるのか、わからなかった。

「きっと母は私より兄の方が大切なんだ」と思った。
そして「私が兄を抜くことは望まれてないんだ」と思った。
「私は勉強ができちゃいけない」と思った。

私の比較対象は常に兄だったので、同級生の中で自分がどうだったのか、は全くわからない。
いちいち自覚がなかったけど、多分なんでもよく出来た。
3つ上を比較対象にしてるのだから当たり前だ。

絵が得意でみんなの似顔絵を描いたり、流行ってる漫画をそっくりに描いたり、人気者だったと思う。
絵の賞状がたくさんあるけれど、母が誉めてくれなかったのでどれも印象にない。
「賞をとる」ことが特別なことである自覚がまるでなかった。
何をしても誉めてもらえない、という証拠が増えるだけだった。

小6の時、私の作った曲が学校の運動会の曲になった。
嬉しかったけれど、得意ではなかった。
学校でどれだけみんなが「すごいね」と言ってくれても、家で誉めてもらえないことはすごいことではない、と思っていた。

一方相変わらず感情のコントロールはまるでダメで、小6になっても毎日のように泣いていた。
でも、いじめられっ子ではなく、どちらかと言うと人気者だった。
いじめられて、でなく、感情が動く度に勝手に泣いてたのだ。

小学校5、6年の担任の先生は根っからの熱血先生で、人として大事なことをたくさん教えてもらったと思う。
去年の同窓会では先生とデュエットをした。
今では伏見区の小学校の校長先生をされてるが、今も熱い、情にもろい素敵でかわいい♪先生だった。

余裕の圏内にいたので、同志社中学にあっさり合格。
同時に兄は洛南高校の特進に合格。
ここから仲良しだった兄と、溝が出来始める。

【次号 小学校後編その2へ】

文/天宅しのぶ(あまやけ・しのぶ)
text= SHINOBU AMAYAKE


【音職人の風景 第3話】 小学校前半(2)

小学校3、4年の時、音楽の授業ジャックをしていた。
小学校の先生は全教科一人で見るけれど、音楽と体育はよく交換授業されていた。
3、4年の担任の先生は音楽は不得意だけど全部自分でやっていた。
それがあまりにもおぼつかなくて、伴奏を申し出て音楽の授業のピアノを弾くことになった。

ところが・・・

このお調子者がそうそう教科書通りのことをすんなりするわけがない。

「教科書の曲よりこっちの方が楽しいやん」と、聞き覚えの流行歌を勝手に弾いて、みんなでジュリーやピンクレディーの大合唱をする。
楽しい先生だったので私の授業ジャックに怒ることなく、一緒に歌ってくれてみんなで楽しんだ。
(モチロン授業は授業でやって、オマケ的に、です)
聞き覚えで弾く、ということの特殊性には全く自覚なし。

ヤマハのJ専科は、グループレッスンでついて行けないと思ったことがなかったけれど、練習を真面目にしないので個人レッスンの進みが悪かった。
このまま続けて行くにはピアノをちゃんと弾けないと、と言われ、エレクトーンからピアノに切り替える。
親がアップライトのピアノを買ってくれた。
エレクトーンからピアノの移行は鍵盤が重くて辛かったけど、なんとなく「本格的」な感じに興奮した。
やっぱり決められた練習はあまりせず、自分が弾きたいと思った曲ばかりを勝手に弾いていた。

小学校5年から、兄も行っていた進学塾「成基学園」に行く。
兄がそうしたように、当然のように「進学するのが普通だ」と思ってた。
兄と同じ、土日コース。(理恵ちゃんも一緒)
火木がヤマハで月水金が珠算教室、1週間全部詰まってる多忙小学生だった。
(でも家で自習、練習はしないので、ほとんど遊びに行ってる感覚)

塾で兄と同じ先生が担任になり、「お兄さんはよく出来たよ」と言われる。
理科の先生にも言われた。
母も同じことを言った。
一度もテストを受ける前から、「私の方が出来ない」と決めつけられてる気がした。
「同じだけ出来ないと認めてもらえない」と思った。
「超えればみんな認めてくれるんだ」と思った。
「ここで兄よりよかったら、母もみんなきっと誉めてくれる」と思った。
この幼稚な期待は裏切られることになるのだけど・・・

兄は中学受験に失敗した。
当時京都で一番の洛星中学を受験して落ちた。
成績的にはまぁまぁ合格圏内だったのだけど。
洛星は男子校なので、私はどうやっても行けない。
どんなに頑張っても、女子は教育大付属か同志社がアッパー。

その進学塾の成績、やはり追う者の特権で、私の方がよかった。
模擬テストでもよくランキングされて、男子だったら洛星も楽勝、灘中圏内にいた。

あんなに兄のことを私に言った人達、母も含めて誰も私を誉めてくれなかった。
幼稚な私は、行き詰まった。
どうしたら母が認めてくれるのか、わからなかった。

「きっと母は私より兄の方が大切なんだ」と思った。
そして「私が兄を抜くことは望まれてないんだ」と思った。
「私は勉強ができちゃいけない」と思った。

私の比較対象は常に兄だったので、同級生の中で自分がどうだったのか、は全くわからない。
いちいち自覚がなかったけど、多分なんでもよく出来た。
3つ上を比較対象にしてるのだから当たり前だ。

絵が得意でみんなの似顔絵を描いたり、流行ってる漫画をそっくりに描いたり、人気者だったと思う。
絵の賞状がたくさんあるけれど、母が誉めてくれなかったのでどれも印象にない。
「賞をとる」ことが特別なことである自覚がまるでなかった。
何をしても誉めてもらえない、という証拠が増えるだけだった。

小6の時、私の作った曲が学校の運動会の曲になった。
嬉しかったけれど、得意ではなかった。
学校でどれだけみんなが「すごいね」と言ってくれても、家で誉めてもらえないことはすごいことではない、と思っていた。

一方相変わらず感情のコントロールはまるでダメで、小6になっても毎日のように泣いていた。
でも、いじめられっ子ではなく、どちらかと言うと人気者だった。
いじめられて、でなく、感情が動く度に勝手に泣いてたのだ。

小学校5、6年の担任の先生は根っからの熱血先生で、人として大事なことをたくさん教えてもらったと思う。
去年の同窓会では先生とデュエットをした。
今では伏見区の小学校の校長先生をされてるが、今も熱い、情にもろい素敵でかわいい♪先生だった。

余裕の圏内にいたので、同志社中学にあっさり合格。
同時に兄は洛南高校の特進に合格。
ここから仲良しだった兄と、溝が出来始める。

【以降、後編その2へ】

文/天宅しのぶ(あまやけ・しのぶ)
text= SHINOBU AMAYAKE


【音職人の風景 第4話】 小学校後半(2)〜

だんだん父の仕事を理解するようになる。
毎週お弟子さんが父に囲碁を習いに来ていた。
私もちょくちょく寄せてもらって一応の手ほどきを受ける。
(残念ながら興味が続かず、強くなるまで至らなかったけど)
社会的には偉いお医者さんや社長さんが、父を「先生」と呼んで敬っていた。
子供心に父は、尊敬されるべき人なんだ、と思ってた。

お弟子さんのお稽古はアルバイト的な仕事で、本職は「手合い」である。
それには立ち合ったことがないけれど、言い訳のきかない勝負の世界だ。

父は「一局で3kg痩せる」と言っていた。
関西人特有の「ふかし」半分として、精神労働で体重が減る、というのはすごいことだと思う。
普段家でのんびりしているように見える父は、才能もあり、勉強もしてる人なのだ、ということがだんだんわかってきた。
かっこいい!
友達のお父さんや、世の中の大人達の中でも、ダントツにかっこいい、と思った。
ただでさえ父になついてたから、ますますファザコンになる。

モチロン勝負の世界は厳しく、一向に勝てず精神病になって廃人になる人は後を絶たない。
業界を見ても、ストイックで変な人が多い。
父は珍しくまともだと思う。

ところが、そんな父のことが自慢で大好きな私自身が最も父の足を引っ張ることになる。

小4で風邪をこじらせたのが元で、そこから喘息持ちになった。
発作が出ると自然に治まることはなく、救急病院に連れて行ってもらって吸入をしないと治まらない。
たいてい発作は夜中におこり、両親は多い時は週に何日も夜中に私を病院に連れて行くことになった。
でも喘息という病気は発作さえ治まれば全く健常者になるので、次の日はケロっと学校へ行く。
(ただひどく寝不足だけど)

当時は全く意識していなかったのだけど、私の発作は決まって父の手合いの前日に起きていたらしい。
最も緊張感が高まり、最善の体調に調整したい時、それを邪魔するかのように私に振り回される。
「構ってほしい」や「困らせたい」は全くなかったと思うけど、家の中に流れる緊張感を感じてしまっていたのだと思う。
「なんでこんな大事な時ばっかり!」と言いたくもなっただろうと思う。
父は一度もそのことについて私に何かを言ったことはない。
家族に起こることも全て自分の実力と受け止めていたのだと思う。
大学生になってもうほとんど発作に悩まされることがなくなってから母がポソッと言って初めて知った。

父はとある宗教の先代教祖にも囲碁を教えていた。

教祖から「先生」と呼ばれる立場だけど、随分影響を受けたらしい。
通常信者の方は教祖と直接話せることなどないと思うと贅沢な話だ。
いきなり教祖、なので、無駄なく本質的だっただろう。
父は信者の方達と何かの活動をすることは一切ないけれど、個人的に月に一度は京都の教会にお参りに行く。
それにもよくついて行ってたので、教会の人達は私の顔を知っていた。
(家族で教会に出入りしてたのは私だけ)

小学生の頃、父のその仕事について行くのが夏休みのイベントだった。
父の仕事中、チケットをもらって遊園地とプールで遊べるのだ。
よくウチの家族だけじゃなく、親戚や近所の家族も一緒に行った。

世界一と言われる8月1日の花火も、塔の中のVIPルームで見たことがある。
それはそれは素晴らしかったが、小学生の私は大きな音が怖かった。

当時はまだ私にとっては父のオマケだったこの宗教の教えは、この後自分の内面と向き合うようになる中学生の私に、中学で出会うキリスト教と共に多大な影響を与えることになる。

余裕の圏内にいたので、同志社中学にあっさり合格。(理恵ちゃんも合格)
同時に兄も第二志望の進学校へ合格。
ここから仲良しだった兄と、溝が出来始める。

ようやく中学編へ。。。

文/天宅しのぶ(あまやけ・しのぶ)
text= SHINOBU AMAYAKE


【音職人の風景 第5話】 中学編

text= SHINOBU AMAYAKE
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塾や同じ小学校から進学した数名を除いて、ほとんど全員新しい人達の環境が始まる。
過去の私を知らない人達の中、「泣き虫の私」とサヨナラするチャンスだと思った。

そこで幼稚な頭で考えた策は、「無感情になる」だった。
自分では最高にいいアイデアだと思った。
効を発して小学校時代の自分とは比べ者にならないほど泣かなくなった。
本質的でないひどい対策だったけれど、自分では名案だと満足し、喜んで小学校の担任の先生にまで「泣かなくなりました!」と手紙まで出した。
アホだ。

同志社にはピアノが上手な子もたくさんいた。
でもやっぱり音楽室のピアノで弾きたい曲を弾きまくっていた。
今でも同級生はそのシーンをよく覚えてるらしい。

勉強は入学した時には同志社の中でも上の方だったけれど、もう「私はあんまり出来ない方がいいんだ」と思ってたので、積極的に成績を上げたいとは思わなかった。
ここから6年間、ホントに全然勉強せず、卒業するためだけの成績だった。
しなくていいと思ってたし、する目的、意味を見出せなかった。

父が「勉強は自分のためにするもんやぞ」と残念そうに言うのも、よく理解出来なかった。
「己の探求心を満たしていく勉強するのは面白いんや」と言うのも、よく理解出来なかった。

母が「男の子はいい方がいいけど、女の子は同志社くらいでいいねん」と、よく言っていて、そっちの方が現実的で説得力のある言葉に思えた。
うっかり私が兄よりいい大学なんか行ったら家の中がギクシャクする、そう本気で思ってた。
もともと勉強を真面目にする気なんてなかったけど、それを理由に自分のなまくらを正当化していた。

兄の行った高校は今でこそ京都を代表する進学校だが、当時はそうでもなく、京都有数の進学校になるべく力が入っていて、もの凄くスパルタだった。
学校以外に塾に行く余裕は全くなく、明けても暮れても夏休みも、授業と合宿に追われてた。
なんとか入った兄はついていくのが精一杯で、常に追いつめられていた。

一方同志社でのんびり過ごす、勉強をしないことにした私、存在だけでも目障りだったろう。
全く一緒に遊ばなくなり、共通の話題は減った。
兄が私の呑気ぶりに嫌味を言うと、私も負けずに「中学落ちるからやんか」と、言ってはいけないことを言ってしまう。

母からは重圧を受け、兄はつらかったに違いない。一所懸命やってるのに足りない、というのは高校生にはつらかっただろう。
兄は息が詰まるような高校の3年間で家を出る決意をし、受験の時に地元の大学をはずし、地方の大学に行った。
母は出て行って欲しくなかったから兄に「学部を下げても地元の大学」を勧めたが、無駄だった。

この3年間、母の関心は兄に集中していた。
私は同志社に入ったことで、お金さえ払えば将来の心配はない、ということになったらしい。

同志社に入って、毎朝礼拝があった。
賛美歌を歌って、聖書を読んで、説教を聞く。
賛美歌はきれいな曲が多く、よく覚えている。
みんなよく覚えていて、同窓会をするとかなりたくさんの曲をみんなで空で歌える。
そして聖書、聖書に書かれてることは面白かった。
授業にも聖書の時間があり、聖書に書かれてる意味をわかりやすく教えてもらえた。
かなり積極的に読んだ。
人としての考え方の多くを、聖書から学んだ。

一方小学生の時は父に連れられてだけ行ってたある宗教のお勉強、同志社の隣のクラスに積極的に活動してる子がいた。
誘われるままに参加し、教典に興味を持って本もたくさん読んで勉強した。
その宗教はもともと「人の道教」と言ってただけあって、どのように人生を過ごすべきか、のヒントがたくさんあった。
不都合なことには全て理由がある、など、その時の私には目からウロコなことばかり。
中学の場所が教会と近かったこともあり、中学の3年間はかなり積極的に学んだ。
話も聞きに行き、活動にもたくさん参加した。
持病の喘息もなんとかしたかった。

中高一貫なので学校のメンバーは変わらないが、中学は主に同志社の同級生と一緒に過ごし、高校は同志社に反発して外部の友達と積極的につき合うようになるのだった。

以降、高校編

文/天宅しのぶ(あまやけ・しのぶ)


【音職人の風景 第6話】 中学〜部活その他編

text= SHINOBU AMAYAKE
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中学に入って、初めてのクラブ活動。
兄が中学でバドミントンをしてた(よく一緒にやった)ので、自分もや
りたいと思った。
運動部に入ったら体も丈夫になって、喘息もよくなるんじゃない
か・・・という浅知恵もあり。
でも母に猛反対され、断念。
たしかに、ちょっと走って息切れするだけで喘息の発作が起きるような
私に運動部はあり得なかったのだけど。。。
(どの運動部も基本、走るからねぇ・・・)

祖父の形見のバイオリンがあったので、管弦楽部に入った。
弾いたことなくても教えてもらえる、という。
上手くなったらオーケストラで弾かせてもらえる、という。
全く弾いたことがないし、どのくらいで「曲らしい曲」が弾けるように
なるのかわからなかったけど、とりあえず「やってみたい」と思った。
祖父のバイオリンは傷んでいてそのままでは弾けなかったので、母が調
べてくれて修理に出した。
修理費で安いバイオリンが買えそうな値段だったようだけど、せっかく
持ってる祖父のバイオリンで弾きたかった。元はいい物だったようだけ
れど傷みがひどく、修理してもあまり鳴る楽器にはならなかった。

先輩と先生が指導してくれて、「キラキラ星」をキーキーした音で弾く
ところから始まった。
始めてすぐには頭が痛くなるようなひどい音しか出ないが、みるみる上
達、1年生のうちに小さい時からずっとやってた人とも一緒に弾けるよ
うになり、オーケストラのスタメンにも早々と入れてもらえるように
なった。
2年はオケのスタメンは楽しかったけれども、バイオリンそのものを誰
も教えてくれなくなった。上達しないから面白くなくなってしまった。
他に習いに行く、というほどにも感じていなかったので、3年になる時
にやめてしまった。

同級生に同じくハイスピードでチェロが上達した男の子、M君が
いた。
もともとピアノがすごく上手く、尊敬していて、憧れてもいた。
M君は同志社大学を中退してチェロで芸大に行き直し、プロのチェリス
トとして活躍し、3年ほど前に音楽をやめてしまった。
在籍していたオーケストラを辞めてから誰に聞いても消息不明だった。

去年、一時的に覗いた「同志社中高オーケストラOBの掲示板」
で、同じく一時的に顔を出していたM君とバッタリ会い、リアル
にも再会出来ることになった。
まさに劇的再会!
静岡に居たM君は、結局音楽の世界に戻ってきて、活動を再開し
て間もない小さなコンサートに呼んでくれて、聞きに&会いに行った。

M君のチェロからは、中学の時には気づかなかった中学の時の彼、その
後今日に至るまで、が、手に取るように感じられた。

私にとって刺激的だったのと同様、M君にとっても私は刺激的な
存在だったらしい。
M君はピアノもチェロもとても上手く、テクニカルだったが、その実
「練習オタク」だったそうだ。
彼からすると「感覚派」で練習しない私が気になったらしい。

「憧れの人」は、良くも悪くも変わらなかった。
ずっと再会したかった人だから、もの凄く嬉しかったけど、少し寂し
かった。
(寂しさは、私が勝手に抱いていた「大化け」の期待がはずれたから、
です。)

再会に私以上に大はしゃぎしてくれたM君、とても精神的に不安
定で壊れ物のように繊細な人だった。(思えば昔からそうだった)
その後また不安定期に入ってしまい、また外界との接触を断ってしまっ
てるようだ。
去年の冬、奥さんの地元である名古屋に引っ越して行った。

なんとなく・・・・

「今度こそもう会えないかも知れないな」と漠然と思う。

ヤマハのJ専科は卒業した。
J専科の思い出がほとんどない。
落ちこぼれてたら嫌な思い出があるはずなので、普通にこなしていたの
だと思う。
オリジナル曲でコンクールに残ったり、グレードを取得したり、色々
あったはずなのだけど、あまり覚えていない。ワクワクもハラハラもし
なかったのだろうか?
J専科で習ったことは、無意識だけれども多分今の私の基になっている。
「いつ出来るようになったかわからないこと」は、ほとんどここで培わ
れたと思う。
音楽的な感覚、仕組み、和声、作曲、編曲、など、頭ではなく体に染み
ついた、と思う。
それらは大学に行ってから自覚するようになる。

中学に入ってJ専科を卒業後、同級生でピアノが上手だった
Yちゃんに紹介してもらって、同じ先生にピアノを習いに行った。
そこはピアノで芸大を目指す人達がたくさんいた。

やっぱり練習が嫌いで、弾きたい曲の譜面を買ってきて、勝手に弾いて
いた。
当然、テクニック的には既に行き詰まっていた。
でも、「もう練習しなければ先にいけない現実」とは向き合いたくな
かった。


文/天宅しのぶ(あまやけ・しのぶ)


【音職人の風景 第8話】 ・・高3編

text= SHINOBU AMAYAKE
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高3の夏、進路を決めなくてはならなくなった。

同志社大学に行ければ学部なんてどこでもいい、と思う反面、大学に
行ってもこの退屈な生活をあと4年もすることになるのか、と、うんざ
りした。
もっといい学校に行きたい欲求も勉強する気もない。

中学の時ピアノの先生を紹介してくれたY子ちゃんのお母さん
が、同志社女子大音楽科の声楽の先生だった。

「よかったらウチの大学受けてみぃひん?」

私にとっては中学の一時期仲良しだった「Y子ちゃんのお母さ
ん」だったけど、急にそう声を掛けられた。

同志社女子大に音楽科があるのは知っていたけれど、あまり興味がな
かった。
高校に入ってピアノもやめてしまって、音大や芸大の存在を忘れていた。

「このまま同志社大学に行くよりは面白いかも知れないな」

そう思って、急遽夏休みに音楽科の「受験講習会」を受けた。
さすがにピアノは下手になってるし、そこから頑張る気もなかったの
で、ピアノ専攻は候補からはずして音楽学専攻希望で受けた。

それまで自分が何をどのくらい出来るのか自覚がなかったので(「絶対
音感」は世の中の人全員に普通にある、と本気で思ってたくらい無知)
結果に驚いた。
ピアノ実技は付け焼き刃で練習しただけからそれなりだったけれど、音
楽理論、ソルフェージュなどの専門教科の試験は、ほとんど何の準備も
なくほぼ満点だった。
(後で、全部ヤマハのJ専科で身についてたことに気づく)

「あ、入れる。ここにしよう。」

そう思った。
その程度の気持ち、すごく嬉しいとも感じなかった。

どうせ音大に行くなら作曲科の方が面白そうだ、と思った。

同女の作曲科の先生に「作曲科受けるにはどうしたらいいですか?」と
聞きに行った。
先生は「この和声の本を全冊クリアーしないと、そもそも2年は作曲の
先生に習わないとムリだよ」と言われ、本の中も見ずにあっさり「なん
だ、じゃぁいいや」と断念した。
その和声の本は大学の授業で使ったけれど、この内容ですらもJ
専科でほとんど全部クリアしてたことは、ずっと後で知った。。。

志望をいきなり変更して、高校の先生が驚いた。
音楽の授業も選択していなかったのだから、当然だろう。
ハラハラする先生に、「大丈夫です、受かりますから」と言った。

美術の先生にも「美大に行くにはどうしたらいいですか?」とダメ元で
聞いてみた。
「最低2年はデッサンなど基本的なことを研究所でやらないと・・・」
作曲科の先生と同じようなことを言われ、絶対浪人はしたくなかったの
で「今更ないな」と、あっさり諦めた。

11月に音楽科の内部入試があった。
夏休みからホントの入試まで、Y子ちゃんのお母さん先生に紹介
してもらった先生にピアノのレッスンを受けた。
通常内部入試は簡単そうに思われるけど、意外なことに音楽科の内部入
試は辛い。
内部入試で落ちて、2月に外から受けて受かる、というケースが多い。

Y子ちゃんはピアノ専攻で落ち、私は音楽学専攻で合格した。
Y子ちゃんは外から受け直さず、同志社大学の推薦枠に切り替えた。

11月に進路確定したので、そこから卒業まではひどかった。
卒業危うくなるほど赤点だらけ、サボりまくった。


文/天宅しのぶ(あまやけ・しのぶ)