亜希菜のコラム 2010

【亜希菜のコラム vol.17】

 

自由と悩みと進歩と病

 

 text= AKINA IWAHASHI
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植物や動物の生息域をフランス語ではHabitasionと言いますが、これは同時に「住居」を表します。
つまり植物や動物にとっては、生息に相応しい自然環境が彼らの住居であるということができます。
環境と溶け合って生きている動植物は環境の変化に敏感ですから、その環境が自らに合わなくなると、自らに相応しい場所を求めて移動するか、さもなければ自分の身体をその環境にあったものに変え、生きてゆきます。
つまり環境の一部となっている彼らは、環境を変えることができないのです。
翻って我々人間は、自然と分かれた存在としていますから、自然の変化をすぐさま感じ取ることはできません。
しかしそのことによって我々はそれに対峙し客体として見ることができるわけです。
自分と分離することによって初めてものごととぶつかり、それを認識できる。
だからこそ我々は環境に手を入れ、変えることのできる存在としてあるのだと思います。


今日の様々な問題を見ると、地球における我々は、その成長を担う者として、如何に生きるべきかが問われているようにも思えます。

遺伝子操作のように、人間のエゴを押し付け、自然の時間とリズムを喪失させるように介入することもできますし、
自然が病気の方向に進もうとするときに、彼らの時間のリズムに従って、これを修正することもできるのです。

さて、身体機構の中で頭部を中心とした脳神経系と腹部を中心とした代謝系があります。脳は思考や感覚器官の中心としてあって、精神的な目に見えない、冷めた言わば死の領域に近い部分です。それに対して代謝系は、物質を取り入れ熱を造りだす言わば生の領域です。それをつなぐものとしてリズム系=循環器系があります。それ等を階位を変化させながらつなぐものがリズム系で、これによって相反する両極が生かされたかたちでつながって、有機体を形成していると言えるでしょう。


我々人間も自然の階位を調整しながら我々がそれを利用し、またそれを戻してやるような
リズム系的な振る舞いをすることもできるでしょう。

「病気になることができるから、人間は進化できるのだ」そう考えるとき

「努力する限り人間は迷うものだ」というゲーテの言葉を思い出します。
つまり、「迷う限り人は進歩できるのだ」

ここに新たな視点が見出されるのではないでしょうか。



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